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幸せを感じる時

 暮れゆく冬の空に広がる綺麗な夕焼けを眺めていたら遠くに富士山が見えることを発見した時、なんて言うことではない。
 それもそれで幸せを感じないでもないが、自分がどうこうと言うよりも、自分以外が幸せそうにしているのを見ている時の方が幸せの実感が深い気がする。例えば猫が幸せそうに眠りこけている様子を見ている時などのことだ(人じゃないのか!?)。

 そしてもっとゲスなことを言えば、他人の不幸を見聞きしたときほど自分の幸せを感じることはない。比べてみれば俺って幸せだよなぁ、と。不謹慎と言えば不謹慎だが、何かとの比較でなければ自分を実感出来ないのは事実。幸せも同じだ。その比較対象はもちろん、過去の自分でも良い。授業を受けたり試験勉強をしなくて済むなんて社会人ていいよなぁという風に(そうはうまく行かないことに後で気付かされたが)。

 問題は、他人の不幸は実際の不幸ほどには実感出来ないことだ。戦争で両親を失った子供の気持ちを思えば胸が締め付けられるほど痛々しく感じるものの、その子供が実際に味わっている不幸の何億分の1とか、とにかく到底及ぶものではない。それでも、それと比較して自分がつくづく幸せだと実感してしまうなんて、おこがましいにも程がある。いや、でも、幸せを実感するのはそんな時なのだ。

 そのくせに自分が不幸だと思っている時は、案外何も考えられなくなる。周りが見えなくなる。不幸なのは自分だけな気がしてくる。あの戦時下の子供を思い出せよなんて言い出す自分はどこにもいなくなる。しかも私に降りかかる不幸というのは、実にどうでもいいことだったりする。つまらないことでいじいじしているだけの場合が多い。もちろん本人は切実なのだが。

 つまり、自分の不幸は物凄く実感出来るのに、幸せは実感しにくいということだ。これは私だけなのだろうか。悲しければ涙が出たり胸が苦しくなるのに、幸せな時は笑顔になるくらいなものだ。普通の人はもっと喜びを感じて生きているのだろうか。

 幸せよりも不幸の方を感じやすく出来ているとしたら、動物の進化という観点ではごもっともと思うけれど、人間が褒めれば伸びるというのはかなりの無理ゲーなのかも知れない。だとすれば、喜びや幸せを素直に感じられる子供に育てることが肝要なのだろうなぁ。
 でも子供は、幸せそうにすると親が喜ぶという理由で過剰表現したりするから騙されないようにしないといけない。
 う〜ん、思ってもいないのに嬉しいと言えるのが良いことなのかどうか分からなくなってきた。

おわり

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