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理解出来ないことを理解することの難しさ

 ひとたび自分が理解してしまうと、それを理解出来ていなかったことを思い出すことは極めて難しくなる。その状態のままで理解出来ていない人に接すると、なぜこの人は理解出来ないんだという思いが先に立ってしまい、説明するどころか理解しようとする努力が足りないかのように見えたりしてしまう。その人が理解出来ないということを理解することがもはやできなくなってしまう。

 しかしそれは、声が届くか届かないくらいの川の向こう側にいる人に、橋を渡らずに、しかも濡れないでこちらの岸に渡る方法を教えようとしているのと同じような状態でもある。あるいは、辿り着いた雲の上から、地上にいる人に向かって、ロープを使わずに登る方法を教えようとするようなものだったりもする。

 それを教えるためには、もう一度向こう岸に戻るか、雲から降りる必要があるのだが、実際のところ戻り方が分からない。一度自転車に乗れるようになってしまったら、なぜ乗れなかったのか分からなくなってしまうものだ。

 同じ目線に立って教える、寄り添って導くと言うと聞こえは良いが、現実に出来ることは応援することと補助すること、そして出来た時にそれを認めてあげることくらいだ。つまりヒント与えられても答えを教えることは出来ない(きっと教えても理解出来ない)。答えはその過程も含めて自ら体得する他ない。

 自分で経験を積んで体得しないと得られないスキルは山ほどあるのに、マニュアルと研修で何とかなると思う人が増えたのはいつからだろう。人生はカーナビのようにはいかない。道は前にあるのではなく、自分で切り拓いたその後ろに伸びるものだ。正解かだったかどうかは、未来のあなたしか知らない。

 人生を、そこらに転がっている先人が作った道具を使いこなすことだと勘違いしてはいないか。生きるための道具を正しく選んで使い方を覚えれば創り上げることが出来る、そんな風に感じていないだろうか。与えられた選択肢の中から一番正しいものを選んで、より効率的に速く正しくこなすことこそが正解だと思っていないだろうか。より多くのお金を得ることが正解の証だと思ってはいまいか。
 私自身が堕落した怠惰な人間のくせして上から目線でそうやって問いかける相手は、実は自分自身なのだ。

おわり

 

 

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