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ルールと権利意識は人それぞれ

 人はそれぞれ自分なりのルールに従って生きている。
 駅のホームで次の電車待ちの列に並ぶ時、時間的な順番を守るというルールの人と、駅のアナウンスのルールを守る人がいる。具体的に言うと、列に到着した順番に列の前から詰めて並ぶ人(恐らくこちらをルールにしている人が多い)と、ホームのアナウンスで、2列に並んでと言っているのを守り、既に一列に並んでいる人がいたとしても2列目の先頭に並ぶ人のことだ。

 後から来たのに列の先頭に割り込むなんてけしからんと思う人も多いと思うが、当の本人は2列に並べと言われているのに並んでない人達が間違っていると思っている。要するに適用しているルールがそれぞれで違うのだ。
 ここに権利意識が絡むことになる。

 列を作って並ぶ事の意味は、早く来た順番に先に乗車する権利が付与されるというものだ。だからどんな理由があれ、後から来た人が先に乗車するのは列のルールに反する。先行乗車権(そんな権利名があるか知らないが)を侵害することになる。
 駅が2列に並べとアナウンスしているのに一列に並んでいる人々は確かにルールに反している面があるが、それは列の作り方に関してのルールだ。そもそもルール通りの並び方をしていない時点で先行乗車権は剥奪されるとしたら、後から来て2列目の先頭に並んだ人の行動は正しい。

 この2つのルールのどちらが完全に正しいかは決まっておらず、状況によって変わる。

 ルールを定めると、それを守る人には権利意識が生まれる。守っている人の方が正しいことをしているのであって、無意識のうちに、守らない人を裁く権利があると思うのだ。その権利意識はルールを守らない人との間に軋轢を生むことになる。

 電車に関する例をもう一つ挙げると優先席に対する考え方の違いがある。優先席はそこに座れる人の条件が定められているのだから、条件に当てはまらない人はどんな場合でも座ってはならないというルールの人と、条件に当てはまる人がいたら譲れば良いのであっていなければ座っても良いというルールの人がいる。優先席に座る権利の話だ。
 
 誰も、私はこうしたルールで生きていますと明示しながら歩いてはいないから、他人がどんなルールに従って行動しているかは分からないままに社会生活が営まれている。常識というものががあるだろうと言ったところで、その常識すら人によって違う。
 画一的な社会であれば常識も価値観も万人に共通したものがあって、常識を守れの一言で説得可能だろうが、個人の自由と多様性が大切だとされる社会であれば、私の正しさはこれなんですという主張を否定するには証拠と論理による説明が必要になる。これが、説明責任だとか論破ということが取り沙汰される理由の一つだろう。

 電車に乗ったら何よりも座ることが大事だと走るのも厭わない人がいれば、走って席を奪い合うのは危険だし良くないと思う人もいる。かつては、扉近くに立っている人は駅についたら一旦ホームに降りて降車の妨げにならない様にしたものだが、現在ではそうする人の方が少ない印象だ。
 人に譲ることよりも自分の権利を守ることに一生懸命になりやすい社会なのだろう。

 ルールと権利意識が人それぞれなのは当たり前ではあるが、みんなが違うということを認識出来た先には、譲歩を見いだせるようになると良いのだと思っている。そうでもしないと戦争になるに違いない。

おわり

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