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海外志向

 その男性は26歳で無職。
 職に就いていないのは帰国してまだ一ヶ月ほどしか経っていないからだ。
 ワーキングホリデービザを取り、ニュージーランドでバリスタをしていたという。しばらく日本でのんびりしてから、このあとは北半球の国に行きたいと思っている、と言っている。どうやらカナダに目をつけているらしい。それまでの間、日本では働くつもりはない、なぜなら時給の高い国で稼いだ蓄えが少しはあるから。

 そう語る男性の前に座るのは外国人女性だ。マッチングアプリでても知り合ったのか、遅れて到着した彼女とは初対面の様子。
 日本には留学で来ていて、大学に通っているというそのヨーロッパ生まれの彼女は、長くいると言う割にはかなりたどたどしい日本語で話している。
 外国帰りの彼の方はすかさず英語を持ち出すが、彼女は英語を喋ることは出来なかった。ブロンドの髪をなびかせた欧風の外国人と見れば英語を理解するだろうと思うのが間違いであることを思い知らされる。

 二人の会話は結局、カタコトの日本語を通じて続く。

 その男性が仕事をしていない理由は少しの蓄えがあるからという他にもあった。世界的なミュージシャンになりたいのだという。そのために海外で働きながら英語を学んでいるんだと初対面の彼女に熱く語っている。いや、熱くもない。どちらかといえば他人事の様に語っている。
 聞けば、なにしろミュージシャンとしてはこれからだと言う。楽器が出来る訳でも無く、歌が歌える訳でも無く、これから始めてギター一本で歌いたいと恥ずかしげも無く言えるのは、海外帰りだからだろうか。

 この男性、なぜミュージシャンになりたいのか。

 唐突に、彼はフランス語も喋れると言った。得意気に喋った「フランス語」は、誰でも知っているフランス語の挨拶言葉だった。ほぼそれだけだった。それを聞いた彼女がやや喜んだのは、彼女がフランス生まれだったからだ。異国の地で母国語を喋れる外国人に出会うと何故か嬉しくなるアレだ。

 彼は呟くように続ける。
 フランス行きたいなぁ、だからフランス語を勉強したいと思ってるんだ。分かる? 僕の日本語通じてる?って、さっきはお前、カナダに行きたいって言ってたくせに。

 ねぇフランスのどこで生まれたの? ん? ストラスブール? 知らないなぁ、どこそれ。
 聞いておいて何だか失礼な反応だなと私は思ったが、彼は構わず続ける。
 いろんな国に行ってみたいよ。ストラスブール?も行ってみたい。フランスいいなぁ、行きたいなぁ。世界中に行ってみたい。

 この調子で延々と空虚な話が続いていた。

 彼が懲りずに時折話す英語は、ワーホリに行っていたと言うのが嘘ではないだろうと思わせるほどにはこなれていた。しかし、本気で英語を勉強しに行ったのだとしたらかなり勿体ないレベル。しかも成果を試そうとした目の前の外国人女性は英語が喋れない。さぞや残念だったろう。

 聞いていて思ったのが、この青年は英語が喋れるようになった暁に何を語ろうと思っていたのか、何を歌いたいと思っているのかということだった。

 スゴイねキミ。何でそんなに日本語喋れるの?
 とにかく、スゴイスゴイを連発していて、6年も日本にいるという彼女のたどたどしい日本語も褒めちぎっている。褒め上手と言うべきか。
 彼女が、喋るのはまだしも漢字が難しいと言うと、彼は強く同意するとともに自分も漢字は出来ないし漢字が嫌いだと言う。
 彼が漢字を嫌いなのは構わないが、日本人の多くが漢字が嫌いなんだと余計な嘘をついている。

 26歳、海外志向でミュージシャン志望の彼は、この食事が終わったら渋谷に行こうよと彼女を誘っていたが、学校の休み時間はもうすぐ終わるから私は戻らなきゃと言われて、あえなく撃沈していた。
 なるほどコイツ、欧米女性目当てのヤリモクだろと思った私は、水を一口飲むと伝票を手に席を立った。

 学校は大切だよね。授業はちゃんと出た方がいいよ。

 昼下がりの喫茶店で、ようやくまともなことを言っている彼の声が、少しだけ寂しそうに響いていた。

おわり

 

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