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愛によって為しうること

 日曜日の朝のNHKニュースで、映画『ボブ・マーリー:ONE LOVE』が取り上げられていた。プロモーションのために来日したこの映画のプロデューサー、息子のジギー・マーリーのインタビューを見ていてハッと思った。それは、愛についてのことである。

 この時代にあってこの映画を作った意義はと問われて、ジギーは言う。

映画を通して愛のメッセージを届けることができます。
愛はすべての根底にあるもの
家で地域で、そして世界中で、人のために行動すること
(ジギー・マーリーへのインタビューより)

NHKニュース おはよう日本 、2024年5月26日

 愛とは利他行動そのものだということ。
 愛しているというのは、自分以外の誰かのためにこの身を捧げることだということ。
 そういえば結婚式の時に誓ったはずだ。

その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くす ことを誓いますか?
--- はい、誓います。

結婚の誓い

 ボブ・マーリーは言っている。

私の人生は私にとって重要ではない。
みんなの人生が大切なんだ。
多くの人を助けることができなければ、
私は生きている意味がない。

(ボブ・マーリー)

上記NHKニュースで取り上げられた過去のインタビューより


  多くの日本人にとって、外来語として使われる愛という言葉が分かりにくいのは、西洋のような確固とした自我を持ち合わせていないからではないだろうか。他人と自分を分ける強力な自我が無いということは、どこかで同じ日本人という繋がった感覚が根付いていて、人のために生きるという感覚は持ちにくい(最近はそうでもないかも知れないが)。

 ある時期、日本の若者の中で「自分探し」という言葉が流行したことがあった。そんなもの探し回っても無意味だという批判もあったが、当の本人たちは大真面目に「自分」を探したものだ。この時の自分探しは拠り所や自信を見つけるための旅だったのだろうが、それはすなわち自我の確立とも関連することだ。
 自我を確立するためには、大きな枠組みの中での自分の相対的位置付けを知ることが近道だ。だから世界を旅せよと言われたりする。生活の拠点を変えることで視点が変わり、日本人としての私という、ある種の客観的な視点が得られる。

 いくら世界を旅して自分を見つけたつもりになっても、帰国して日本で生活しているうちに、きっとまた自分を見失うことになる。日本の社会では確固とした自分を要請されないからだ。むしろ出る杭は打たれてしまうのだから(打たれるばかりでなく、自分でも知らずにいろんな杭を打っているはずだ)。
 海外在住が長かった人や、外資系企業に勤務している日本人の雰囲気がどことなく違って感じられることがあるはずだ。これは、その人が生活する人間環境が普通の日本とは異なるからだろう。つまり、海外の社会環境や海外の人との関わりが強固な自我を求めてくるので、それに慣れると日本人としてのアイデンティティは持ちながら、日本人的な粘り気のある繋がりとは別の、ドライな人間関係になるからだろう。バックグラウンドが同じ人同士の繋がりが日本的だとすれば、バックグラウンドが異なる人同士の関係性を築くのが海外的な関係性だ。

 海外では、日本そして日本人という共通項が無い中で、あらゆる出自の人たちと友好な関係を築こうとする時に、愛が必要となる。愛を通じて繋がる必要がある。
 ボブ・マーリーは歌っている。そして、対立した人々が愛を通じて融和することが出来ることを示した。
 愛をもって相手のために行動することで心が一つになる。心が通じればそこに安寧があるはずだと。

One love
One heart
Let's get together and feel alright

One Love, Bob Marley & The Wailers 

おわり

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