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映画『プロミシング・ヤング・ウーマン』

 何を書いてもネタバレになりそうな映画だ。
 誰が登場して、どんなことをして、どんな経過を経て、どんな結末を迎える。そんなことは1ミリも書けない。だからいつものように、私が見て感じたことをつらつらと連ねるだけ。

 あまねく人権が認められるようになった現代のアメリカで、人種や性による差別が無くなったかと言えば決してそんなことはない。差別的意識は人々の中に深く根を張っている。パブリックな場面では表面化しにくいものでも、プライベートな空間では露骨に姿を表すことがある。
 
「将来を有望視された若い男性」という表現に違和感を全く抱かないとしたら、この映画は不快な作品になるだろう。その違和感の無さは「社会が男性によってつくられている」という暗黙の了解によるものだ。
 社会が何によってつくられていると思うか。その問は差別意識が滲み出てくるリトマス試験紙のように働く。
 将来有望な男性がいれば、将来有望な女性だっている。
 人種に関わらず、出自に関わらず、育ちや学力や金銭的な貧富に関わらず、何人なんびとも将来が有望であることに変わりはない。

 将来が約束されたはずの女性が人生を途中下車して、一見堕落した生活を送っているように見える主人公の女性キャシー。彼女がプロミシング・ヤング・ウーマンなのだろうか。それとも別の登場人物のことだろうか。あるいはこの映画には登場しない誰かのことか。
 結婚適齢期を迎えようという彼女が何を目的に生きているのか、どうしてそうなってしまったのか。なぜ両親と同居しているのか。
 頭の中に湧くそうした疑問の先につい答えを探そうとしていた。でもそれは他人事だからそう思っただけだ。よこしまな気持ちと裏腹に彼女の幸せを願うのは、何も分かっていない証拠だ。
 そんな自分の存在に気がついたとき、なぜ彼女がカラフルなマニキュアをしていたのか、その残像とともに見えてきたものがある。
 
 この映画が恐怖だとしたら、その恐怖に打ち勝つには、新しい自分を見出さなければならない。

おわり

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