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日本が財政破綻するとき

 昨日と同じ今日があり、今日と同じ明日があると思って生きているが、そんなことは保証されているものではない。だが、そう思ってしまうところに今の人間の弱点がある。

 トラックやバスの運転士が足りないという。
 運輸業界では時限外労働の上限規制が始まったからというのもあるだろうが、人手が足りないのは運転士に限らない。飲食店でもコンビニでも新聞配達でも同じだ。あらゆる企業で募集しても期待ほど人が集まらなくなっている。
 このことから分かるのは、いつものバスが来なくなったり、電車の遅延が常態化したり、何事も長く待たされることが増えたり、店舗の休みが増えたり、携帯の電波がしばしば届かなくなったり、停電が頻発したりする未来が近いということだろうか。

 これまで有り余る人を投入出来た仕組みからの脱却が迫られているという意味では、企業は改善を強いられる。便利過ぎる社会に慣れた人々は、しばらくの間不自由な思いに苛まれるだろう。
 めったに停電せずに、通信障害もたまにしか無く、店はいつでもやっていて、行列はスムーズに流れ、電車は時刻通りに来て、バスの本数も維持されている社会は、当たり前ではないのだ。

 人の数が足りないとなれば労働力の売り手市場が続き、給与水準は上がって行くのだろうか。需給バランスでのみ給与が決定されるというならそうだろうが、現実はどうなるか分からない。高度なスキルを持つ人材に破格の給与を支払う企業がある一方で、高い給与を払う余力の無い企業は常に人が足りず、労務が逼迫してしまうだろう。
 これは給与だけの問題にとどまらない。さして面白くもなく辛い仕事には人が寄り付かなくなることをも意味する。弱小企業は潰れて構わないという極端な考え方もあるかも知れないが、世の中は大企業だけでは回らないのだ。

 その先に見えてくるのは、さらなる格差の広がりと、社会の分断と隔絶だ。それに伴う荒廃も視野に入ってくる。給与水準の多層化が起こり、高水準の給与で職を手にする人がいる反面、賃金が据え置かれてジリ貧を強いられたり職を失う人がでてくる。

 今は高齢者の多さに辟易している人も中にはいるかも知れないが、高齢者の存在が多くの需要を生み、経済を回している効果はそれなりに高い。彼らがいなくなった暁には、浪費する役目を司るのは誰になるだろうか(誤解無きよう添えると高齢者が浪費しているということではない。減っていく人口を前提とすると、今の高齢者の数の分をを量で補うには誰かが浪費しなければならないはずということだ)。

 人口減少によって、政治も経済も担う人が減る。役所の職員もしかりで、一人当たりの負担がのしかかるだろう。その職員を支える税金を払う人も多くないとしたら、それはどんな世界だろうか。何となく、財政破綻した自治体が思い浮かぶのは気のせいだろうか。社会と経済を支えるためのバランスは至るところで崩れて行くだろう。
 そうだとすれば、日本が財政破綻するのは政府の借金が膨らんだ時ということではなく、それを払う人がいなくなった時ということだ。明日を担う人がいなければこの国は続かない。
 かと言って、日本存続のために子供を産み育てたいというのが結婚の動機になるとは考えにくい。
 かのバブル経済崩壊を自信を持って予測出来た人はいなかった。今が日本の財政破綻前夜だとしても、実感を持ってそう思える人はいないということだろう。
 昨日までと同じ明日がずっとそこにあり続けることを祈り続けるしか術はないのだろうか。

おわり



 

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