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地球上から人類がいなくなる日

 もし本当にそうであるのなら、早晩世界は終わるのかも知れない。

 スマホを手に持っていなくても、近くにあるだけで認知能力が低下するという。単にスマホが気になるというだけではなく、勉強中はスマホを見てはいけないと思うことが勉強への集中力を削ぐ。
 しかも、幼い頃からスマホに触れていると脳の発達が遅れるというのだ。しかも人間の理性や知性を司る部分が。
 要するに、スマホは便利な道具と思いきや、人を退化させる道具になっている。

 スマホが普及し始めて二十数年が経過した今、物心ついた頃からスマホが身近にあったという世代が大人になっている。スマホが登場した時に既に大人だった側の人たちも、その後長年に渡りスマホに親しんでいて、スマホ無しでは何も出来ない人になっている。それに伴って人間の能力は減退している。

 試みに、渋谷109の入口に立った状態で、渋谷駅から東京駅に地下鉄で行くルートをスマホ無しで調べてみることを考えて欲しい。道行く人に尋ねる以外に何か方法を思いついただろうか。そもそも、どうやって調べようかとあれこれ考えようとしただろうか。考えることすら放棄せざるをえなかったのでは無いだろうか。単に、そんなのムリ、とだけ思って考えることすらしようとしなかったのではないか。

 スマホさえあれば簡単に出来ることが、スマホが無ければ今の私たちには出来ない。それだけ私たち自身で出来ることが減ったということだ。知識量のみならず、考えることすら出来なくなっている。
 パスカルは人間は考える葦であると書いたが、考えなくなったら弱いだけの雑草にも似た存在でしかなくなるという訳か。
 考えようとしても、そのための脳が育っていなければ土台無理な話だ。AI以前に、私たちは既に何か大切なものを明け渡してしまっているのかも知れない。

 スマホが人間から切り離せないのだとすれば、人間とスマホをセットにして、ひとりの人間と見なせば良いという考え方もあるだろう。身分を証明するためのマイナンバーカードだってスマホに内蔵されるようになるのだから、スマホ無しには社会生活を営むことは不可能になる。実際に私たちの多くは、マイナンバー機能が無いスマホですら無しでは暮らせなくなってしまった。

 もちろん、便利な道具を活用することが即ち悪いことだということではない。しかし、それによって人間そのものが成長しなくなるどころか退化するのだとしたら、次の時代は全く予想出来ないことが待ち受けているということでもある。
 これまでも人間は、技術の発展・発達と共に退化してきた面がある(ここで退化とは、生物学上の退化とは違って一般的な意味合いで使っている)。かつての人間が持っていた能力が具体的にどうだったか把握している訳では無いが、今の日本人よりも視力が良く、鼻が利き、長時間長距離を脚で移動出来、少ない食料でも生活出来て、雲の動きや風の香りで天気を予測しただろう。生活に直接関わることに費やす時間が大半で、関係無さそうなことに費やす暇は無く、余暇を楽しむ(暇をつぶす)なんてことは無かっただろう。贅沢という言葉の意味もきっと違っていたはずだ。

 見方によっては現在でも十分に退化した人間になっているのであって、この先その方向性のまま進んでいくのだとしても、より便利な道具が補ってくれると思えば、別にどうということはない。そんな風にも思える。
 生きるために時間を費やすのは勿体ないことで、より自由な時間の使い方が出来ることこそが豊かさの象徴だということかも知れない。
 そうだとしても、機械に生かされているだけの人生だとしたら、私はそれを選びたくはない。選ぶ間もなく、人類は地球上からいなくなっているのかも知れないが。

おわり
 

 

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