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自由と束縛の死生観
現代は人類史上で過去にないくらい人が死なない時代になっている。医療や衛生環境の改善だけではなく、殺される機会が減ったことも影響しているという。その結果、人は死ぬことよりも生きることを前提とした死生観が広まった。死ぬのは今日明日の話では無く遠い将来の話だと思うようになった。
いつ死んでもおかしくない状況下では、死は身近なもので、あちこちで日常的に見聞きすることだ。今日生きていることは相対的に貴重なものになる。
逆に、死が非日常になって身近に感じられなくなった今、今日生きていることは相対的に軽くなった。生きていることが当たり前になったのだ。
健康で長生きすることを理想とする人が多い社会では、ろくろくタバコも吸えないし不摂生をすれば身内に限らずあちこちから怒られる。こうした社会になったのはつい最近のことで、昔からずっとこうだったのではない。健康の定義も何だか急に狭苦しくなって、年々加速している感がある。長生きが半ば義務化された観念になって、どう生きるかよりも、如何に長く若く生きるかに重きが置かれがちだ。
何のために生きるのか、生きるとはどういうことかという疑問を抱くのが若い人の特権だった時代は過去となり、今どきそんなことを真面目な顔で口にすれば精神科の受診を勧められかねない。生き方に悩むどころか、早いところ稼いで後は悠々自適だと本気で思っている若者がいたりもする。
人生で何かを成し遂げようといった壮大な目標を持つべきだとは思わない。決められたルールは破ってこそのものだとも言わない。ただ、出来上がった世界の中で、作られた物語に沿って、薄く描かれたお手本の線をなぞるだけで生きている実感があるのだとしたら、少々勿体ないと思うだけだ。
明日死ぬかも知れないと思ったらどんなことだって出来る。一度死にかけた人がそう言うのを聞いたことがある。何回もそうした話を聞いて、その度に確かにそうだよなと思って世界が少しだけ輝いて見えたとしても、一晩寝ればまたくすんだ世界に戻ってしまう。残念ながら、本当に死にかける経験をした人でないと、人生何でも出来るという心境にはなれないようだ。
普通に暮らしていると、どう考えても明日自分が死ぬことを実感することは出来ない。その前提で生きようと思えない。それは身の回りに現実的な死が無いからだろう。
亡くなる場所は自宅では無く病院か施設になり、葬儀も葬儀場で行われるようになった。隣近所の人の葬式に参列する時代なら人の死に立ち会うことがしばしばあったのだろうが、家族葬が主流となればいつ葬儀が行われたのかさえ知らないことだってある。そもそも、隣近所の人とは殆ど顔を合わせ酢、亡くなったことだって後になって知るくらいだ。
死から切り離された生とは、何なのだろうか。
生と死は対の概念だから、どちらか一方だけでは成立しない。だからといって、死があるから生があるというのではない。生きているものはいつか死ぬというのは正しい。でも、死は時間的に行き着く先と捉えると見誤る。
生死と言った場合の生は、生きていることと死んでいることを併置して、というか内包した大きな概念を前提としているように思う。そもそも、死んでいること、という表現には違和感があるように、生と死は本質的には別のことだ。別のことなのだが、同じことでもある。
生き死にのことを考えていると、現実とは何かということに思い至る。
死んだら、今これを考えている自分がいなくなるということになるのだが、自分がいなくなった状態を生きている自分がリアルに想像することは出来ない。死んだらどんな感じだろうかと想像しようにも、死んだのなら感じも何もないはずなのだ。こんなことを考えている自分がここにいるのは現実に違いないと思う訳だが、それもこれも死んでいないからなのか。
在りし日のデカルトはどう考えていたのかと思ったりする。
生きることばかりに思いを馳せていると、世界の半分しか見えていない気がしてくる。どうせいつか死ぬのなら、自由な発想で生きたいと思う。見えない束縛が鬱陶しくなる。
おわり
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