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生きるチカラはどこに

 乳幼児が母親に殴り殺され、その母親が逮捕されたというニュースを聞くたびに胸が痛くなる。これからという生命が、何の理由も無く絶たれるだけでなく、絶望と理不尽な痛みの中で亡くなったであろう。

 それと同時に、私は逮捕された母親の苦しみにも同情してしまう。虐待や殺人という犯罪を犯したことを擁護するつもりは全く無い。犯罪行為とは分けて考えるべきこととして、追い詰められていたであろう母親を救うことが出来ていれば、子供の不幸は回避できたのかもしれないと思うのだ。

 同様の事件でも背景となる家族環境や生活環境は異なっているはずだ。なので一概には言えないことは承知だが、母親への周囲の人々の救いはあり得なかったのだろうか。その母親が周囲の人々に追い詰められたのだとしたら、母親だけのせいなのだろうか。

 こうした事件の報道で、児童相談所の対応の良否が取り上げられることが多いと感じる。児相がすべきことがあったにしても、国や自治体の対応は最後の砦的なものであって積極的に責任を負わせようとするのは少し筋違いに思える。まずは個人や親族やコミュニティで対応すべき話だろう。それが出来ないから自治体が必要という面があるのだから、割り切れない難しさはあるが。
 事件によっては、父親が同居していることもある。母親が追い詰められる前に父親や家族がどうにかする余地が無かったのかと思ってしまう。

 結論からすれば、家族や親族ではどうにもならないレベルに来ているほどに何かが壊れている可能性があるということなのだろう。
 もしかしたら、昔から変わらずこうした事件が起きていだけれど報道されなかっただけということもあり得る。となれば、事件が起きたまさしくその家族に焦点を当てて未然に防ぐ手立てを考えようとすれば、地域での見守りということがなくなってしまったこの時代、児相に頼る他ないのだろうか。

 最後の砦であるはずの行政機能をフル活用しなければならないのだとしたら拡充が必要とも言えるが、金銭的なものや社会インフラ以外の子育て支援を行政に頼らざるを得ないとしたら、それはそれで残念に思える。
 母親だけが子育てをする時代ではないと語られがちだが、それは男性の関わり方がまだ足りないことの裏返しでもある。育児や家事をする男性が増えたものの、仕事と同じくらいの熱量で子供を育てることに取り組んでいる人はまだまだ少ないのではないだろうか。
 人が生きるため、そして今後も人類が生き抜くために必要なのが、現在の私たちが従事しているような会社に通ってやる類の仕事ではないことは間違いない。仕事をしなければ社会が回らないのは事実だが、生きる力は仕事以外のことで磨く必要がある。
 子育てをする人が孤立して悩みを抱える社会だとしたら、どこか方向が間違っていると思った方が良いように思う。

おわり

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