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大抵のことは半分にするところから始まる

 貴方の言うことは合っているけれど間違ってもいる。半分は当たっているが半分は外れている。言わんとすることは分からないでもないが。独りよがりだ。

 そんな風に言われたことは無いだろうか。

 これを言われると一聴して頷ける場合が多いかも知れないが、それは当たり前のことを言っているからだ。貴方の考えが100パーセント正しいのは貴方の中の世界でだけ成り立つ話で、相手には当然相手なりの考えがあるのだから、自分の意見と異なる話を投げ掛けられたとしたら、半分しか正しくない、となる。

 しかし本当は半分も正しくはないと思っているのであって、何ならきっと否定するつもりで言っているくらいだろう。
 その証拠に貴方の側の半分の正しさが認められることは無かったはずだ。

 どちらが正しいかという論争が正しい結論を見出すことは無い。自分が正しくないという自己否定を前提に主張することは出来ないから、みんな自分こそが正しいとしか思えない。たとえ理屈で負けたとしても納得出来るものではない。
 だから裁判では軍配を挙げる役目の第三者がいる。二者で正しさを争っている限りは終わりがないからだ。

 私たちが決められるのは、どちらが正しいかではなく、どれを選ぶかだ。どちらを選ぶかではない。最適解は、両者の意見をごちゃ混ぜにした上で、そこから掬い上げたところにある。
 両者ともが自分が正しいと思っていることが本当にそうだとすれば、二人にとって正しいことはその中間点にある。中間点を見定めるのは難しいけれど、一歩二歩と歩み寄った先に必ずある。互いを拒絶するのではなく、否定するのではなく、その間にあるものが何かを二人で覗き込むことが出来れば、解決への第一歩にはなる。

 背景に長い歴史と宗教観、そしてしいたげられた記憶があるから折り合いをつけるのは限りなく難しい。それが世界の紛争地域で起きていることだ。しかも、同じコインの裏表についてどちらが表か裏かを争っているようなものだから正解は無い。同じものを見ているのに、互いに見えているものが違う。歩み寄ろうにも、見ているものが元々同じだからこれ以上は近付けるスペースが無い。コインに両面があるからには、どちらも表でいいじゃないかという訳にもいかない。そしてもっと残念なことは、そのコインは実際には存在しない幻想だということだ。

 あちら側とこちら側を隔てる壁は本当は無いのに、当事者にはくっきりと見えていて、疑心暗鬼ぎしんあんきのみが跋扈ばっこする。こちら側を善と呼び向こう側を悪と呼ぶ。紛争に限らずあらゆる分断はそうして起こる。人々は自分の廻りに壁を張り巡らせることに夢中になって、仕舞には内側にあるはずのものさえ良く分からなくなる。
 きっと私たちの脳はそうやって分けることでしか世界を認識出来ないのだろう。どこまで行っても見ている私と見られているあなたという構図が頭から離れない。俺と奴らを隔てるものは頭の中にしか無いのに、その隔て板だけが妙に現実的な輪郭を持ってあたかもそこに存在するように見えてしまう。

 社会を律するには善悪の判別が必要というのが当たり前の道理になっているが、そうやって半分にすることで大抵の厄介事がはびこり始める気がしてならない。

おわり


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