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論理の逆立ち

 原因と結果を入れ違えた言い方をしてしまうことがある。そうした話を聞いてなるほどと思ってしまったこともあるはずだ。

 例えば、キリンは高い所にある葉っぱを食べる為に頸が長くなった、というような話のことだ。実際は、頸が長いから高い所にある葉っぱを食べることが出来る、というだけのことだ。何故長くなったのかについては誰にも分からない。というか、理由は後付けにしかならない。

 仕事の生産性が低いから世界的な競争力が無い、というのも同様。生産性というのは単位時間当たりのアウトプット量のことだから、結果を集計して初めて分かるものだ。終わってみないと分からないことが原因になることは無い。
 だから、もし言うのなら、競争力が無くなった要因の一つに生産性の低さが影響している可能性がある、となる。

 原因と結果を入れ替えて考えてしまうことの問題は、それが事実を表していないということ以上に、真実を見えにくくしてしまうことにある。
 生産性についてもう少し詳しく見れば、生産性を低くする要因となった仕事のやり方や仕組みがあったはずであり、例えば日常的に仕事をサボる人が多いということかも知れない。競争力を高めるために生産性を上げよう、と言ってみたところで何も変わらないわけだ。改善するにはサボる人を減らせば良いだけだし、もっと言うなら、サボる原因となっている何かを見つける必要がある。

 物事を論じる際の道具に論理と呼ばれるものがある。一般的には理屈と言われることもあって、良い印象を持っていない人も多いように感じるが、(真偽の程はわからないが)英語などに比べて日本語は非論理的とも言われる。だとすれば、よほど意識しないと論理的には喋れないことになる。
 実際には、日本語でも十分に論理的に話すことは出来るので、言語としての日本語に論理性が無いのではなく、理屈を好まない人が多いというようなことだろう。ともかく、意識しないと論理的には喋れない土壌であるようではある。

 真実が何か、何が正しいかということ以上に、話が論理的かどうかに気を配った方が良いだろう。

 論理とは別に、日本では「筋」という言葉がある。筋が通っていない、などのように使われる。この筋が通らないという言葉は、実に沢山の意味を内包している。その中に、論理的ではない、という意味もあるのだが、一般的には道理に合わないとか一貫性がない、辻褄が合わないといった様な意味で使われることが多いのではないだろうか。
 あくまで個人の印象だが、筋と論理は似て非なるものではないか。

 例えば、日本には失火責任法という昔ながらの法律があって、火事を出して隣家に燃え移ってもわざと火事を起こしたのでなければ、法律的には隣家に賠償する必要が無いことになっている。しかし大抵の場合、火元の家は周囲から賠償しろと迫られる。火を出して迷惑を掛けておいて賠償しないなんて、法律だかなんだか知らないが道理に合わない、筋が通ってない、と言われるのだ。

 論理的に言えば法律に従うことの方が筋が通っているはずだが、その前に人としての誠意を問われるのが日本社会なのは皆さんご存知だろう。火元の家の人が法律に厳格に従って何のお見舞金も出さなければ、そこに住み続けることは出来ない(お見舞金程度では許されないことの方が多いが)。
 火災の例は極端だとしても、筋や道理には論理とは異質の何かが含まれている様に思われる。

 それに対して、論理はどこか人間味が無く無味乾燥に思えるのは、きっと私が日本人だからだろう。でも論理は単なる因果関係だけを扱うのではなく、議論のツールとして様々な原則や考え方が整理されているので便利でもある(流行りの論破とお勧めしている論理とは少し違うので注意)。

おわり


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