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人類が生き延びた理由は言葉にあった

 自然の脅威に立ち向かい生き延びるために、人間には社会性が必要だった。人は自然の中では弱い存在だからだ。
 社会が構成され大きくなると自然の脅威は遠のき、自然に対立することよりも、社会を維持することにエネルギーを注ぐようになった。そうせざるをえなくなった。
 その結果、自然界ならとっくに淘汰される存在が人間社会では生き延びることが出来る。言い方が難しいが、他人の救済が無ければ生き延びれない個体は自然界では淘汰されるが、人間社会では救済される。救済によって、死滅していたはずの個体が生き延びることになる。

 生物にとって多様性は世代を超えて生き延びる戦略のひとつだから、様々な種類の個体を容認するのは生物として正しい。しかし自然界で容認される多様性は単独で生き延びることが出来る身体をもっていることが条件だ。
 それに対して人類は、必ずしも身体が前提条件にならない。
 医療や医薬が無ければ人口はもっと少なくなるが、医療によって救われてようやく生き延びる人が、社会にとって無益ということでは無い。障害者に同じ人権があるとされるのはまさにこの理由による。我々ホモ・サピエンスは体力の強さ故に生き延びたのではなく、社会性が故に他のサピエンス種族を置いて勝ち抜くことが出来たのだ。

 平和で差別のない社会での有用性は、人類以外の生物としての有用性と異なる。生物としての優位性があっても無能とされ、繁殖能力が欠落していても生き残れる。人類にとっては一個体が、その遺伝子を後代に残すことよりも、社会が維持され続けることの方が優位性が高いということだ。全員が筋骨隆々としていることは必要ない。色々な個性があることが重要なのだ。

 だから、個性や多様性を社会として認めようということになる。たとえあなたにとってそのことが気に食わなくても。生理的に受け付けないとしても。

 人類が暴力を諫めるのは、そして暴力では解決しないと度々言われるのは、社会性によって暴力を打ち負かした古の記憶が私たちの遺伝子に刷り込まれているからだろうか。誤解しがちなので注意が必要なのは、人類が力ではなく頭脳で自然界を生き延びた、のではないということだ。生き延びたのは頭脳のお陰もあるが、もっと重要なのは社会性だったのだ。そして、社会性を作ったのは、言語だった。

 しかし残念なことに、社会性や言語こそが争いの原因にもなる。
 多様性を認める限り、人類皆兄弟とはならない。多様な中には好戦的な人もいるからだ。協調性とは程遠い人もいるからだ。人類はそうした人々を法によって隔離しようと試みたが未だ成功していない。

おわり


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