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テックと仕事から見える未来

 社会にとって仕事とはなんだろうか。
 社会にとってテックとはなんだろうか。

 テクノロジーは人々が何かを作る時の方法論として受け継がれ進化してきた。いわゆる技が体系化されたものだ。産業革命によって人馬の力を大きく上回る蒸気エネルギーを手に入れた人類は、それまでよりも遠くに行く術を得た。同時に、より多くのもの、大きなものを作る技を手にした。
 その後、蒸気の力を電気に変えることで、エネルギーを様々な形に変換したり遠くに運ぶことが容易になった。電気を利用した照明器具によって家や工場は明るく照らされ、モーターの応用によって洗濯機や冷蔵庫など家庭で使われる機器、建設現場や工場で使われる工具や機械が発展した。
 エネルギー源として木炭や石炭だけではなく石油を利用することによって内燃機関が発達することで自動車や飛行機が登場して、人類は世界中を安価で自由に行き来することが出来るようになった。
 こうした技術の発展は、私たちの社会に物質的な豊かさをもたらした。時間と空間を自在に操れるようになった。

 経済と技術の発展によって、より短時間に多くのものを生産し、そこで作られたものを物が少ない地域に移動させるということが可能になった。こうして生産と消費の人的・地域的な分割が生まれた。社会を機能させるには、作物を作る人、運ぶ人、売る人というように細分化された仕事が必要になった。特定の仕事に従事する人が必要になった。
 この動きは産業革命以降の技術革新によって様々な分野に及び、より強力になると共に世界中に広がった。

 それまでは口づてと、紙と印刷に頼っていた情報は、19世紀終盤になると電気的な信号として伝達することが出来るようになった。後には電磁気的な方式によって記録および伝送が可能となり、かつ、処理することが可能になった。いわゆるコンピュータの登場だ。
 コンピュータは半導体によって実現された論理回路が元になっている。当初のコンピュータは大した機能も無いのに巨大なもので、大きな電力を食うものだった。ところが人類は半導体を電子レベルで見ることによって装置を小さくすることに成功した。かつては巨大な倉庫が無ければ収まらなかったコンピュータが数ミリ角の大きさで実現出来るようになった。

 電子的なテクノロジーの発展は、多くの情報を瞬時に遠くへ伝達することを可能にした。産業革命の頃に多くの物が遠くへ移動出来るようになったのと似ているが、その量やスピードは次元が違うほど大きい。あなたがネットで見る動画の情報は、地球の裏側にあるようなコンピュータとの断続的な逐次交信を可能にするような技術によって実現されている。
 こうした電子テックの発展により、社会を維持するために必要な仕事は物以外の分野に広がった。仕事といえば鍬で畑を耕すことだったり、炭鉱で石炭を掘り出すことだった時代は遠く昔となり、工具や機械を操作することに移り変わっていった。機械がコンピュータによって操作されるようになると、人間の仕事は監視することになった。物を直接扱う仕事以外にも、情報の記録、整理、管理、伝達をするために多くの仕事が必要になった。
 現代の便利で快適な生活を支えるためには膨大なエネルギーと人々の仕事が必要になっている。その多くが座って出来る仕事だから気が付いていないが、社会は便利で快適になったのと引き換えに、無駄な仕事を増やしてきたのだ。それは身体を酷使しない代わりに精神を酷使する。

 さて、いまAIによって失われると危惧されている多くの仕事は、こうして人類が無駄に増やしてきた仕事だ。いまや人は、AIではなく人でなければ出来ない仕事が何なのか改めて熟考しないと分からないようになってしまったのだ。仕事が、社会を機能させるために必要な活動だとすれば、そして社会の機能の多くはコンピュータによって代替可能だとすれば、多くの人は働く必要がない(社会について考える必要がない)というテック至上主義が台頭するのは自然なことだ。多くの人は社会から与えられたものを消費するだけで良い。その社会は特別な人たちとAIによって適切に管理・運営される。そんな社会が理想だとするのも分からなくない。

 それを聞いて、働かなくてもいいなんて何て楽なんだ、いいじゃないかと思ったとしたら、残念ながらこれまでのあなたは奴隷的に生きていたということになるかも知れない。社会の枠組みに入れてもらえないことがどういうことなのかは、映画「マトリックス」を思い出してみると分かり易いだろう。

 資本主義経済や民主主義社会を生きている我々にとって、それ以外の経済や主義が台頭している世界をイメージすることは容易ではない。そもそも、私たちが現在抱いている資本主義経済や民主社会というのは漠然としたイメージに過ぎず、それが良いと思い込まされているだけだ。現実の社会は、資本主義の枠組みから常にはみ出そうとしているし、理想的な民主主義とは違った形になっているはずだ。
 水と油を容器に入れてかき混ぜると一見混ざったように見えるが、しばらく置いておくと綺麗に分離する。それが本来の姿だ。そこに界面活性剤を入れれば水と油は混合するように見えるが、界面活性剤を仲介として繋がっているだけで、混ざり合ってはいない。それと同じ様に、理想と現実は混ざり合うことはない。

 市場によって価格は適正値に落ち着くだとか、国民によって選ばれた代議士によって民意を反映した良い国が作られるなどというのは理想の話だ。給与が少ないと不平を言ったり、政権の汚職を非難するのは、理想を信じているからだろう。本当はもっと良いはずだと。こんなはずではないと。

 テクノロジーによって便利になった様に見えているとしたら、技術によって生活が快適になったと感じているとしたら、世界中を旅することが出来て幸せだと思っているとしたら、あなたはマトリックスの繭の中で夢を見ているのと同じだ。それを疑ってみるか、夢を現実と思って見続けるかはあなた次第だ。

おわり
 
 

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