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考えない方が良い社会

 自分の考えを述べると疎ましがられ、何を言うかではなく誰が言うかが重要視される。そんな社会だという認識は間違っているだろうか。
 小学校から高校までで教えていることは、自主性とは名ばかりの考えない人だと思っている。
 その方が色々と都合がいい。

 考えを持つ人は邪魔くさいのだ。文句を言わずに言われたと通りにしているのが一番いい。
 それでも私たちは言いたいことを抱えているから、そのモヤモヤは愚痴話で消化する。あのバカ上司、と言ってみたりする。それでも面と向かって正論・反論を言う人がいなければいいのだ。

 そんなんで良いとは、私は思わない。
 自分の考えを持つこと、それを言うべき人に伝えることができるようになれば人知は豊かになる。

 しかし、だ。
 誤解を恐れずに言えば、誰もが考えることが出来るような素質を持ってはいない。誰もが言葉を正しく操れる様にはなれない。誰もが愚痴を言わない人になれる素質がある訳では無い。そんな状態で皆が皆意見を述べようとしたり、考えようとしたりするのは問題ごとしか生まない。
 だから、陰で愚痴を言っているくらいでちょうどいい。つまり、考えない人を育てる教育でいい、ということになる。

 それでも敢えて問いたい。
 みんなが考えない方が良いという教育をする社会でいいのですかと。  
 考えない人がいてもいいけれど、考える人がもう少し多くいてもいいんじゃない。
 思っていることを言い放つだけではなく、考えることが出来る人をもう少し育てた方がいいんじゃない、と。

 子供たちを点数で並べて平均点を調整し、正規分布になっているかを検証して分布のばらつきを求める。そして各学生が分布内のどこに位置するのかを数値にする。
 こうした手法は、全体の傾向を把握する手段としては間違っていないが、学生側がその数値を目的化するべきものではない。
 小学校で点数という仕組みに慣れ、中学校で全体分布の中での位置づけを意識させられ、高校ではその数値でどんな人間か区分される。

 それだけが学力や人の能力を測る基準であるはずもないが、学校教育という場では他の尺度はあまり顧みられない。大学ですらその延長線上に据えられてしまっていて、区分によって分けられた人々が収監される高額収容施設と化している。日本の大学の学生の多くは、点数によって評価される世界しか認識できないから、考える場であるということを思いつかない。

 小さな頃から、考えることが得意な人を育てて、選別された学生が集まった場になれば、大学は学びの育成機関として今よりも活躍できるはずだ。考えることが得意でない人は、それぞれの得意なことを育てて、その道のスキル向上を目指せば社会は様々な能力を活かせる人で溢れて豊かになるはずだ。少なくとも理想論はそうあって欲しいな、と思ったりしている。

おわり

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