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独り立ちの季節
進学、就職を機に住み慣れた町を離れて新しい街に移り住むことが多いこの時期、それまでの安心という殻を破って不安と期待の世界に挑むのには、それなりの勇気がいるものだ。しかしそれも慣れてしまえばなんてことは無い。引っ越しを重ねると居を移すことは寧ろ楽しいものになるはずだ。
要するに、ずっと安心の世界と思っていた我が家は、それ自体が特別に安全で快適な訳ではなく、何となく惰性でそれが正しいと思っていただけのことの方が多いということでもある。外の世界では無防備ではいられないにしても、それだって慣れてしまえば大したことではない。ここが安全と鵜呑みにして動かず、世界を知らないことの方が大きなリスクを孕んでいるとも言える。
それでも見送る方としては虚しさが無いと言ったら嘘になる。これまでの一緒の生活が突如として無くなることの現実を目の当たりにして、生まれてからこれまでの思い出が頭の中を駆け巡る。もっと何かしてやれたんじゃないかという後悔にも似た思いが心の底の方に張り付いたまま消えない。
でも、立ち去る背中に向かって心のなかで、どうか輝かしい未来がありますようにと祈ることしか出来ないのだ。
ユーラシア大陸に張り付くように連なる日本列島は、小さな海を隔てて二大社会主義国と向き合っている。そして、遥か東にある自由主義大国の盾としての役割を担って、事が起きれば身を挺してお守りしますという暗黙の約束をさせられている。そのことに慣れすぎていて、誰もそんなことを感じずに日々を暮らしている。
有事の際は守ってもらえる。だから笑顔で有効的な態度でお迎えし、極上のホスピタリティでおもてなしする。
きっとそう思いたいのだと思う。
でも現実は全く違う。盾は盾に過ぎない。誰も盾が傷つかないように大切に扱おうなどと思わないし、盾を守ろうなんて考えない。我が同士と言いながら陰でお人好しを笑う。あいつらはその気にさせておけばいい、出過ぎた真似をするようだったら頭を小突いてやれば黙る。そんな風に思われている。
もはや戦後ではないと言われて70年が経とうとしているのに、日本という国は独り立ち出来ていないように思える。国もそうだし国民もそうだ。何かを判断する時にはお伺いを立てる必要があるという感覚が染み付いてしまっているかのようだ。あるいは、欧米有意の考え方に暗黙の同調をすることが無意識に行われる。外人はカッコいいと思ったことがないだろうか。外人は何を着てもオシャレと。スラリと背が高く脚が長くて羨ましいと思ったことはないだろうか。野球選手がメジャーリーグで活躍するなんて凄い、日本人俳優がハリウッド映画に出るなんて凄いと思ったことが。
和食よりも洋食、ごはんよりもパン。和服よりも洋服、毛筆よりもペン。
その当時の人々にとって、慣れた和の食事や着物を捨てるのには勇気がいっただろう。しかし躊躇する気持ちを凌駕するある種の洗脳によって、私たちは新しい価値観の中で育ってきた。しかしそれは、安全で快適で便利という反面で、私たちに合った生き方や住まい方、自然との付き合い方を忘れさせてしまった。すぐにはびこる雑草に悩まされることが無い反面、花に舞う蝶を愛でる余裕も、庭木でさえずる小鳥の声に心を奪われることも無い。
日本が日本らしくあるために、日本人が日本人らしく生きる。
与えられた価値観を追い求めるのではなく、私たちの中から湧き上がる日本人たる素晴らしさをもって、世界と対等に向き合う。日本の心で世界に手を差し伸べる。
そうしたことが出来るためには、きっとそろそろ私たち自身が独り立ちしなければならないのだろうと思う。
完全に忘れ去ってしまう前に。
おわり
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