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脱成長とはなんだろうか

 脱成長とは、経済成長を過度に追い求めることをせず社会として成長することを目指そうということだろうか。思うよりも古くからある言葉のようで、今となっては恐らく、言う人によって脱成長の定義が様々かも知れず、同士と思っていた人が実は微妙に違った考えだったということもありそうだ。
 ともかくも、物質的な豊かさを求める気持ちから逃れたいと思いつつも、実際には逆に物欲にまみれてしまっている様な私が言えることではないのは百も承知だが、最近の脱成長というワードに微かな違和感や僅かの拒否感を抱いてしまうのは、きっと私だけのせいではないだろう。

 資本主義が何かを搾取することを前提としたシステムである以上、それがグローバルに展開されることで種々の問題を生み出すであろうことは容易に想像がつく。消費による経済成長を無条件で良しとする価値観を見直そうという動きが、地球環境問題を契機にして湧いてくるのは自然なことだ。

 これまでの歴史の中で度々取り上げられてきた環境問題は、純粋に地球の大気やエネルギーの問題だったり、エコシステムの問題だったり、自然の中での人間の存在意義といったことに着目されはしても、環境と人間の活動とのバランスを取ることを基調とし、生活を支える経済システムに大きな反旗を翻すほどの価値観の転換を促す動きは決して強くはなかった。
 ここに来て多少なりともそうしたムーブメントに興味を示す人が増えたのだとしたら悪いことではない。もし私たちがいる資本主義経済が、何かが犠牲になることでやっと成立するような経済成長を強いるものだとしたら、これをそのまま是とすることは出来ないであろう。
 

 過度な経済成長を放棄して社会が成長することを目指すと言っても、きっと尺度は様々で、少しの経済成長も無くして社会の成長は無いという人もあるだろう。特定のコミュニティという閉鎖空間が成長することを目指した場合、その内部と外部の境界線を隔てて発生する格差を気にする人もいるだろう。脱成長の運動によって新たな分断や格差が生まれるのだとしたら、それはやむを得ないことなのだろうか。脱成長だけが正解で、経済成長を追い求めるのは悪なのだろうか。

 私が思うに脱成長の要点は、経済成長一辺倒の考え方や価値観に楔を打ち込むことであって、それによって取り戻せる何かや取り返せる何かについて人々が目を向ける切っ掛けになることだ。現在の快適で便利な生活を手放したくないと言うのは自由だが、それが犠牲の上でしか成り立たないことを理解しようとする起点になれば良い。だから、過度な脱成長を謳う必要は無い。過度な経済成長を名指しで否定するほど過激になる必要もない。

 脱成長は、私たち人類が永続していくためには避けて通れないことだ。資本主義の原資が地球に眠る資源である限り、無限に成長し続けることは出来ない。経済がグローバル化したことで、汚いものや見たくないものは物理的により遠くに追いやられるようになった。江戸時代なら私たちの身近にあった肥溜めは、見知らぬ国の山奥の村に集められて悪臭を放っている。
 経済のグローバル化と併せて私たちの視点をグローバル化するのは難しい。私たちの視野は身の回りのことしか捉えられない。遠くの国の困りごとより今日の晩御飯の方が重要課題だ。しかしグローバル化するということは、私が今日の晩御飯にありつけるのは(もちろん作ってくれる人のお陰ではあるが)、どこか見知らぬ国の人々が困りごとを引き受けてくれているのと引き換えになっているということを思い出さなければならない。イメージしなければならない。

 いつまでにどれくらいの脱成長を遂げれば良いのかを決めるのは難しい。成長無くして経済は回らない怠惰な私の場合は尚更だ。

おわり
 

 

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