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全てを背負う時代に必要なもの

 現代は、全てを自分で背負う時代になった。
 自分で決められるという自由は、全ての決定が自分の責任だということの裏返しだ。中には人のせいにして自分で決めたのではないと主張して自ら『せいにする』ことに束縛されようとする人もいるが、多くの人は自分の人生は自分で決めようとする。

 そうした自己責任の輪は大きく広がっていて、あらゆることが自分に帰属しているとされる。
 良い結果になった場合は良いが、人生で出くわす分岐点での選択の誤りは、後に自分に降り掛かってくることを意味する。結果如何で自己が否定されることになるから酷な話だ。

 努力するものだけが報われると言われて育った不器用な私にとって、要領の良い人が上手く行っているのを見ることほど癪なことはない。その逆に、上手く行っていない人を見るに、努力していないからだと蔑んでいる。そんな自己責任論者の私は全てを背負い込んでしまうことになる。

 神社に詣でる習慣もなければ参る墓もない私にとって宗教は無縁だが、背負い込まずに済むための道具だとすれば宗教も有り難いと思ったりする。起きたことの全ては神のお導きと言い切れるなら、自分のせいではない訳だから気が楽だ。諦めがつく。神様に文句の一つや二つ言ってやりたくなるだろうけど、それだけだ。自己責任ではなく神の責任なのだから。

 しかし宗教となると余計なことが色々と付いてくるから面倒くさい。別に信心がほしいのではなくて誰かのせいにしたいだけなのだ。しかもスマートに。社会のせいにしたり会社のせいにするのはスマートではないし、そこに束縛されてしまうから違う。なんでもかんでも何か手の届かないもののせいにしたいだけなのだ。

 ふと思いついたのが、お陰様という言葉。
 普通は悪くないことに使う言葉だが、悪いことにも使ってはどうか。
 お陰様で大学に落ちた。お陰様で給料が下がった。お陰様で事故にあった。お陰様で怪我をした。いや、これは駄目か。何のお陰様? と問いたくなる。人のせいにしないとしたらやっぱり神様を持ち出すしかないのか。

 もっとも、世界では神様のせいで戦争にもなっていて、神様がやっていることは良いことばかりではない。だからいいじゃないか、お陰様で。
 お陰様で散々な目にあった、なんていうこともありそうじゃないか。
 何もかもをその背中に背負わずに、今日から全てをお陰様のせいにしてみよう。憎きお陰様だらけになるかも知れないが、健やかになれるならお陰様にも悪者になって貰うことにしよう。

おわり

 

 

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