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ドレスコードフリーの入社式が象徴するもの

 先日行われた入社式関連の記事で興味深いものがあった。それは日立製作所の入社式の話(こちらの記事)。

 さまざまな年齢、国籍の人たちが働いている中で、多様性や個性を尊重したいということで、今回初めて式典のドレスコード(服装規定)を自由にしたという。

 ところが結果は・・・。
 広報部の担当者曰く「少し色がついた、という感じでしたね」という。

 これを読んで感じたのは同調圧力とはまた別の、目立ちたくはないという感覚ではないかと思った。
 日立製作所に入社出来るような人が全くの自由と言われた時に、どうすれば目立てるかを考えるよりも、どうすれば目立たないかを考えるのではないか。他の人がどう出るか分からない中では、これはかなりの難題だろう。つまり結局は無難な線を狙うことになるだろう。

 ただ、式典のドレスコードを開放するという試み自体がおかしいと言えばおかしい。さまざまな年齢、国籍の人がいたとしても、正式な式典には元々それ相応のドレスコードがある。それに準じるのは同調でも何でもなく、常識というものだ。だから、ドレスコード自由ですということが何を意味するのか参加者にはよく分からなかったのではないだろうか。

 例えば、結婚式に招待する際に服装は自由ですと伝えたとしても、Tシャツ短パンを想定してはいないだろう。逆に新婦よりも豪華で目立つドレス着用も期待していないだろう。

 ではこれが日立製作所ではなくてApple社だったらどうだろうか(Appleに入社式は無いというツッコミはなしで)。
 この場合、逆にいわゆるダークスーツだと違和感があるのかもしれない。お前何しにこの会社に来るつもりだと。そこではTシャツにジーズでないと浮いてしまうだろうか。

 ドレスコードフリーという発想が期待するところは分からなくは無いが、敢えてそう言わないと自由に発想出来ないことの表れだとしたら、ある意味で終わっていると言えるのではないだろうか。そう考えると、入社式でドレスコードフリーという宣言は、新入社員に向けたものというよりも、むしろ既存の社員に向けたものなのかも知れない。硬直した発想では世界に伍して戦えない、もっと解き放てと。
 もっとも、これまで生きた環境から180度視点を変えることは簡単ではない。ずっと首輪をされて綱に繋がれていた犬を解き放ってもすぐに走り回ったりはしない。

 人それぞれが自由でいいというのは、それが当たり前と思っていなかった人にとっては、頭では理解出来たとしても、実践するのは難しいを超えて苦悩だったりする。結局はこれまでのやり方を踏襲するのが一番楽だったりする。
 でも本当はそれでは楽しくない。
 だからだろうか、仕事が楽しいと言っている人が少ないのは。

おわり
 

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