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エビデンスよりも大切なこと

 私はインタビューを受けたことがない(受けたくない)ので分からないが、そんな事をいったつもりが無いのに逆の意味で切り取られたなんていうのを聞いたことがある。
 言ったことの事実は変わらないのに、切り取り方ひとつでどうしてこんな事が起きるのか、不思議に思う人もいるかも知れない。

 エビデンスという言葉が良く使われるようになった気がする。証拠となる事実のことを指す。論証しようとしていることがどんな論拠に依っているのか、そのデータを示せという。
 しかし、事実やデータは絶対かと言えばそんなことはなく、如何様にも解釈可能だ。

 科学論文の場合、その論証の構成は決まっていて、冒頭に要約、つまりどんな事を示そうとしているのか大雑把に纏めて提示する。本文では、どうやって事実を集めたか(実験したか)、その結果どんなデータが取れたか、そのデータをどう解釈し何が言えるのか、という順番に書かれる。最初に求めたい答えがあって、その裏付けとなる事実を提示するという手順だ。想定されたのと違った結果(データ)が取れたとしても意味がない訳では無い。むしろ大発見の可能性すらある。
 実験では、結果(データ)の解釈の余地が少なくなる様にプランニングすることが肝要だ。

 科学とは離れて私たちが何かの論証をしようとする時は、都合の良いエビデンスを何処かから見繕って来ることになる。しかし、その辺に転がっている事実というのは、その解釈に大きな余地がある。同じ事実は、見る人によって全く違って見える。真逆の論拠にすらなり得る。だから、エビデンスを提示して論じられているからと言ってそれを鵜呑みにしてはならない。鵜呑みにせずにきちんと見極めようとするその態度を批判的という。その事実からは他の解釈は出来ないのか、角度を変えれば違った風に見えはしないか。批判は事象に対して行われるもので、その意見を述べている人を非難するニュアンスは無い方が健康的だ。

 相手を論理的に打ち負かす事を目的にした議論はつまらないし不健康だ。どんなエビデンスも論理で料理すればそれなりの味になる。相手の論理の綻びを見つけることは、自分の論証の助けには全くならない。それが助けになるのは、どちらかより論理的かを判定するゲームの場合だけで、それは議論の望まれるべき目的とは違う。

 議論によって何を得ようとしているのか、目的を見失った議論は虚しい。最後には参加者全員が納得出来る議論の仕方と臨み方こそが大切だ。異なる意見を戦わせて討ち死にすることが目的では無い。相互理解のための議論こそが建設的なものになる。
 そこではエビデンスよりも、お互いが立たされた現状を理解し合うことの方が助けになることもある。

おわり
 

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