朝から小さく死んでみました

 今日は、最近受けた瞑想のレクチャーについて書きたいと思います。

 「小さな死」と題されたその日のレッスンになぜか心惹かれ、気持ちの良い日曜の朝だったけれども録画保存されたそれを受講してみました。

 先生の誘導で、瞑想の中で私は「死んで」いきます。とても不思議な体験でした。ひとつめのドアを開けると、そこには亡くなっていった家族や知人の写真と骸骨の山。骨にはまだ肉がついているものもあり、今も朽ち続けています。次のドアを開けると、私の人生が終わりゆくことを象徴する砂時計が見えます。どんどん落ちる砂を止めるため、砂時計が入れられたガラスのケースをたたき割ろうとします。でも、それはダイヤモンドでできていて、壊すことはできませんでした。最後のドアを開けると、コンクリートでできたベッドがあり、そこに私は横たわります。すると体を動かすことができなくなり、枕元に置かれた生き返るための書に手が届くことももうないのです。そして、動かなくなった自分の体だけではなく、その時に持っている財産や地位や物質も、この死を回避するのになんの役にも立たないことかと、愕然とするのです。ふと意識を別のほうに向けると、そこには大切な家族や友人の顔が浮かび、彼らが私に向かって死なないでと涙して私の名を呼ぶ姿が見えました。そんな彼らも、私の死を止めることはできません。

 その時、もう私は体が動かなくて目が見えなくなり、耳も聞こえなくなり、肌が感じていた私の体が横たわるかたい床の感覚も消え、自分が消えていくその時を感じながら、なぜか悲しいと思わなくて「あぁ楽しい人生だった。私はとても幸せな人生を歩むことができました。ありがとう」という言葉が頭の中に浮かんできました。死んでいくので怖い気持ちも少しはあったけれど、「ありがとう」が何度も出てきました。これは潜在意識の中で自分は今に満足しているのかな?と思ったりしました。とすれば、よい方向を向いて生きているのかもしれないですね。

 死が身近なのかどうかはさておき、それは確実に平等にやってくることで、私たちはそれを知っています。それなのに、毎日は必ずやってくるように過ごし、今晩眠ると明日の朝は目覚めると、なぜかそう信じています。そんな約束は、どこにもないのに、です。

 私は、今日を一生懸命生きることを生きるテーマにしています。変えられない過去を思い悩まず、未来に起こる何かを心配せず、今この一瞬に集中するという考えに共感したからです。ただ、そうは思っても「あぁ明日はこれがあるから、今日これをやっておこう」とか、「この前こういう失敗をしてしまった。自分はダメだなぁ」と思ってしまうことはままあります。

 この小さく死んでみるという体験をしたことで、もっと自分にとって大切な人や自分自身を大切にすることに集中しようと思えたし、そして今この瞬間を生きるイメージがまた少しわかったように思います。この瞑想、ちょっと怖いシーンもあるので、ちょっと苦手でできないなぁと思われるかもしれません。それはそれでよいと思います。ひとつの気づきの方法として、私にとっては有効な瞑想だなぁと思ったので書いてみました。今日の瞑想を繰り返しすることで自分の人生を見つめなおし、どう生きるのかを絶えずメンテナンスし続けてゆきたいと思います。

 そんなレッスンを提供してくれたのは、こちらの浦西千織先生です。オンラインサロンB-Lifeでも活躍されています。インスタもありますよ。「小さな死」瞑想は、オンラインサロン内のサロン限定レッスンでした。期間限定で無料で利用できるキャンペーンなどもやっていらっしゃいます。


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