個人的神話を積み重ねる
「個人的神話」、文字で読んだことはあるものの、今日とある会話の中で初めて聞いた。インターネットで検索してみると(でいいのかどうかはおいておいて)、精神分析に関することが出てくるが、私の妄想とは少し違う。
3.11から10年というタイミングで3.11に関係したグループ展を行うせいか、当時のことを思い出したり、話す機会が以前よりも増えた。津波の痕跡を初めて見たときに感じたのは物理的な力だったという意見を聞き、確かにその通りだと思った。それを聞きながら頭に浮かんだのはアスファルトの地面に残された傷跡だった。
石巻市で被災した両親が住んでいたエリアは浸水被害がひどかったものの、津波で家屋が破壊されることはなかった。住宅は破壊されることなく立っていて、道路の脇に使えなくなった冷蔵庫やタンスなどが山積みにされていることを除けば、震災があったとは思えないような普通の街並みだった。両親を迎えに行った当初は片付けや事務的なことに追われていて、津波被害にあったエリアに行く時間があまりとれずにいた。母校の門脇小学校が津波被害と火災で黒焦げになったこともウェブの記事では見知っていたものの、実際に見ていなかった。
被災から一ヶ月が経とうとする頃だったか、初めて門脇地区に車で向かった。その時は日和山という小高い丘を越えて門脇の方に行こうとしていた。丘の頂上に着くと門脇地区が見えてきたのだが、おそらく何もなくなっているのだろうという見るまでの想像とは違っており、黒くて横にどこまでもひろがる塊が見えたのだった。
津波でなくなりはしない。津波が物理的な力で何ものかの形を変え、移動させていた。全く気づいてなかった。足がすくむような思いだった(車に乗っていたのだけれど)。門脇に向かう下り坂の途中に私が小学生の時に住んでいた社宅の跡地があり、そこに車を停め、門脇の方に歩いて行った。
道路を確保するために、津波が破壊した家々は一方向に寄せられていて、それが黒くて横にひろがる塊に見えたのだった。道路には巨大な爪で引っかいたような爪痕のような傷がたくさんついていた。住宅の建材などが津波で物理的に移動させられて道路につけたものなのだろう。その時、私の耳には道路をひっかく音が聞こえていた。まさに、爪痕を聞いた。
このことは個人的神話だったのかもしれない。そう気づいたのは、どうしても腑に落ちない詩があったからだ。
ギル・スコット・ヘロンの曲「Pieces of a Man」の詩に「I saw the thunder and heard the lightning」というフレーズがある。本来であれば、雷鳴を聞いて稲妻を見るというところを、逆にしている。詩的表現と言えばそれだけのことかもしれない。このフレーズのあたりでは、クビを言い渡す手紙を受け取る父親を目撃した男の子のことを描いている。雷鳴を見て稲妻を聞いたと男の子が言った後には、父親のバツの悪さを重たく感じたと言っている。
音が鳴っていないのに聞こえたというのはどう考えても変な話で、個人的神話として個人的に積み重ねていくしかない。上述の詩の男の子ではないが、どう振る舞ったらよいかわからないときに、見ているものから聞こえないはずの音が聞こえるのかもしれない。それは当然の反応なのかもしれない。