ファニーゲーム

夢を見る。内容は、覚えていたり、いなかったりする。

起きてからまどろむつかの間、あれは夢の話だったのか、それとも現実にあったことなのか、よくわからなくなる。

映画も夢のようだなあと、ふと思う。エンドロールが終わり、館内が明るくなるあいだは、この気持ちや感情が、自分の中にもともとあったものなのか、お話によってつくり出されたものなのか、理解できないまま境目でふらふらしている自分を見つける。

映画の話をしたい、映画について書きたいと思う一方で、映画によって揺さぶられた感情が大きければ大きいほど、それを語る言葉があまりにも断片的であることを知ってびっくりする。映画を観るということは、私にとって今まで個人的なことだが、これからはそのことについて、誰かに伝えなければならない日は来るはずだ。そのためには、映画によって生み出された言葉の断片を、どのように組み立てるべきかについて、しっかりとした方法論を持たねばならないと感じる。

私にとっての映画は、自身の中にありながら不在に近い濃度になっている哲学や欲望を、吟味/肯定するためのものだ。それは様々な要因によって、色々な角度とレイヤーにむけて行われているので、そのプロセスを語ることはとても難しい。ただ、映画を観ることは、自分の内面を知ることとつながっていて、それは私が生き延びるためにかなり重要な位置を占めているので、「映画」という単語は、私にとってどうしようもないこだわりのあるものとなってしまっている。

私は映画の見方を学んだことがないが、ただ漠然と「すごい映画」というものがあることを知っている。それは腹の中に突然飛び込んできて、自分の中にしまっておき、日常色々な理由で引っ張りだすことがないあまりに、ほとんどなかったことになっている感情や考え方を映画の中で描き出してしまう。そのとき私は、感情が新しくつくり出されたみたいな気持ちにすらなり、「すごいものを観た」という言葉から動けなくなる。

ファニーゲームはそんな映画だ。

この映画で、私は自分の中に存在する、不快という感情の強度を発見してしまった。

そしてその不快という感情の芯は、湖畔の別荘、趣味の良い音楽、に彩られた幸せそうな家族を眺めながら、卵を割った白い服の2人組につながっていく自分を画面に見いだしたことなのかもしれない、と思う。自分の不快を盾に、他人の快を蹂躙したいと思ったことは、かつて一度もなかっただろうか、というのは、恐ろしい自問だ。優れた人や幸福そうな人が、ただそこにいるということによって放たれる光が、自分の中にある闇の部分に照らされると、影を濃くしてしまう。自分が確かに持っている、眼をそらすことの出来ない不足をどのようにケアしていくべきであるのか。私はまだおそらく何の解決策も見いだすことが出来ていない。

銀座テアトルシネマが終わってしまうというあの年、オールナイト興行で、ファニーゲームと出会った。何度か観ていた映画に、改めて出会い直したその夜の体験があまりにも完全で、どうしようもなく鮮明に記憶に残っている。

だから、映画というものを考えるときの一番最初は、どうしてもこの作品の話になってしまう。

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