アンフレンデッド

終始居心地のよい人間関係なんていうものは、ごくわずかの幸福な例外を除けば、きっと幻想の中にしかない。コミュニケーションというものはあらかじめ不完全なものなので、どんなテクニックを使っても伝えられるのは言いたいこと・考えていることの、ごくごく一部だ。だからこそ、多くの場合意図しない形で自身の真意が伝わっていくことを避けられない。そんな不完全なコミュニケーションの結果として少しずつ壊れていく関係もあれば、随時補修していく双方の努力によって続いていく関係もある。しかし、それはもう、自分の力だけではどうしようもないことなのだと思う。

だからこそ私たちは、Facebookにポジティブな言葉を羅列し、精一杯加工された写真をアップロードする。そうすることで、不完全な人間関係の幸福な一部分こそが誰かと関わっていくことの本質だと、可視化させながら心に留めておこうとするのかもしれない。

アンフレンデッドという映画は、終始PCの画面上で展開される演出の映画だ。登場する彼/彼女たちはスカイプやメッセンジャーやFacebook上で日常の大半のコミュニケーションを展開しており、コミュニティ内のコミュニケーションのリテラシーがとても高い。言うべきこと・言うべきでないこと・個人と集団に対する振る舞い方の違い、全てを完璧に使い分け、かつ、主張や思想がコミュニティ内の誰かと重なることがない。しかし、そういった不快を排除する戦略の中に潜む、見えざる悪意や他者への侮蔑が、ローラ・バーンズという不在の輪郭を借り、コミュニティ全体を蝕んでいく。

人間関係を築いていく上で、どうしようもない自分の欠点や弱さが露呈してしまうこと、あるいは他者への隠しきれない悪意や侮蔑の念が悟られてしまうことは、避けられないことなのだろうか。また、それが知られてしまったからと言って、関係性は永遠の断絶を意味してしまうのだろうか。

かつての友人が悪意の化身となり、自分たちのコミュニティ・ひいては自分たちそのものに危害を加えるようになると、彼/彼女たちは「友達解除」しようとする。しかし、なぜかそれができない。悪意に対し、徹底的な保身で応酬していく関係性は、破滅しか生まないのかもしれない。

不快な感情を排除したり、不可視化していくことは、果たして真に幸せと呼びうる結論にたどり着くだろうか?

夏の暑い日、そんなことを考えながら、テアトル新宿を後にした。


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