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棚田を守るという行為と意思と目的と

4連休に豊島に行きました。アートは美しく、考えさせられました。そうして心がうごき、感受性の高くなった目で見た海が、山が、緑が、本当に美しかったです。一番の印象に残ったのはアートではなく自然だったという話。

豊島美術館のとなりで、棚田を守る活動をされていました。これを見て、2カ月前に、京都の修学院離宮に行ったことを思い出しました。むかし、天皇さまが山すそに段々に田の広がる景色をたいそう気に入られて、そこに離宮を建てたそうです。この田んぼ、いまは宮内庁の持ちもので、いまもきれいに管理されています。
似ているように、思いました。

切り詰めて考えると、お米は生きるために食べるもので、田は生計をたてるための仕事場に過ぎないのでしょう。そう考えると、棚田は効率が悪いだけで、割りに合わないことになります。たしかに美しいかもしれないけど、空間をかたちづくることは、ひとの生活維持に役立たない、いわば「不要不急」なのでしょう。
でもこんな切り詰めた経済的合理性だけでは、味がしません。生命維持の最低限の土台としては必要でしょうが、その上の「不要不急」こそが、人のこころの豊かさであり、人間の人間らしさなんだと、しみじみ実感し、心が潤うなと思いました。

とはいえ、離宮と豊島では、決定的に違うところもあります。
離宮の棚田を見るのは、住んでおらず、訪れることも稀な天皇さま。ふつうの人はふつうは入れません。でも国家として必要だから国のお金を使って、完璧に整えられています。
一方で豊島の棚田を見るのは、住んでいる人であり、訪れる人たち。だれかが義務づけたわけでないのに、自分で維持しようと努力している。決して離宮ほど整っていないけれど、自分の意思で、お金と時間を費やすことを、心から尊く、そして応援したく思いました。

島を出る直前、棚田で作られた野菜を買いました。かぼちゃとなすび。
家に帰っていただいたとき、あの自然の美しさが、鮮やかに思い出されました。

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