ブルシット・ジョブ文学とは何か

考えたいということです。私は大学職員として、ぎりぎりブルシット・ジョブ気味な現状に、反省しつつも甘んじている者です。大学に求められていること、本来であれば学生の成長支援、研究者の支援、リカレント教育の実践など、たくさんやるべきこと、やりたいことがあることを隠しつつ、本から知識を得て、複雑すぎる社会を自分なりに捉えようともがいています。

タイトルにある「ブルシット・ジョブ文学」なるものは、Google検索してもヒットしないので、存在しない(はず)ですが、故グレーバー氏の意図に反するものでは無いと考え、とりあえずの着地(なんだか考えることの多かった2月)をこの文章で落ち着けたいと思います。誰に向けることなく、自分に、なんとなく共感を得られる他者へ。

ブルシット・ジョブとは、「完璧に無意味で、不必要で、有害でさえある雇用の形態という定義です。(酒井隆史「ブルシット・ジョブの謎 クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか」 p50 講談社現代新書」)

関連する概念として、シット・ジョブがありますが、こちらは3K労働(きつい、汚い、危険)と対応します。シットジョブ=ケア階級(エッセンシャルワーカー)ということですが、今回は文学として何か発展・普及するんではないかという直観からなので深追いしません。シット・ジョブはプロレタリア文学に対応すると思います。蟹工船を読んだくらいなので、詳しいわけではないですが、文学になることで、「自分の考えていること・苦しみはみんなが感じていることなんだ」ということに気が付き、癒しの効果があるということです。反作用もあるのでしょうが。

もし、ブルシット・ジョブ文学が成立すれば救われる命があるのではないかと考えたきっかけは、amazonのレビューに投稿されたという、「この本(グレーバー氏のブルシット・ジョブ)で命が救われた」というエピソードです。酒井先生の本(p103)から少し長く引用させてもらいます。

Amazon.comの『ブルシット・ジョブ』の販売ページのレビューの上位には、ある不動産業界で働く女性のものがあがっています。そこで彼女は、この本で、命が救われた、生きようとおもったといっています。問題を問題として特定するだけで、なにかぼんやりとしたもやもやを言い当てるだけで、このようなカタルシスが生まれる場合があります。それはこうした人の悩みに悩み方を与えた、「悩んでいいのだ」という裏づけを与えた、ということに由来しているとおもわれます。

この文章が、ブルシット・ジョブを考えるにあたって、人文科学的な切り口があると思ったわけです。人類学のグレーバー氏が編み上げた本であるからして、切り口は多用なのですが、単に現状への非難、格差への糾弾、ケア階級の地位向上、特権階級への憎悪等、ではなく、癒しの効果もあるということを考えたわけです。おそらく、古くはニーチェ、マルクス、フーコー、ドラッカーなどに通づる現状批判の足掛かりと、正統性・生き方を考えさせるきっかけなのだと思います。

本題。まだ手がかりが少なすぎるのですが、私が思うブルシット・ジョブ文学の筆頭は「ファイト・クラブ」です。この物語の主人公は大手自動車会社でリコール調査の仕事をしていました。車に欠陥があることを知りつつ、リコール費用よりも慰謝料の方が安い場合、不都合な真実に沈黙するという精神を病む仕事です。(たしかそんな筋)明らかに知りながら害をなしています(ヒポクラテス)。しかし、高給取り。資本主義のしんどさ、抗うための身体性、アルターエゴの創出による自己保護など、ブルシット・ジョブ要素が満載。ぜひ、皆さんの思う、ブルシット・ジョブ文学を教えてください。砂川文次さんの芥川賞受賞も、もしかしたら追い風かもしれません(まだ読んでいないですが、、明日買います)

この興味に至る経緯、コクヨ野外センターのポッドキャスト、働くことの人類学をオススメして文を閉じたいと思います。文化人類学がオルタナティブな生き方を示し、豊さとは何かを考え直すきっかけになります。

そんな初投稿。2022年3月3日のひな祭り。

感謝(驚)