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"bring-brung-brungen" ーふぞろいなものを学ぶということ

He often breaks a vase. 「彼はよく花瓶を壊す。」
He broke the vase. 「彼はその花瓶を壊した。」
The vase was broken by him. 「その花瓶は彼によって壊された。」

 中学生が英語を学ぶうえで現れる難関の一つが、上のような「動詞の不規則変化」だ。過去の時制で用いる過去形、特定の構文で用いる過去分詞は、規則通りの変化なら、通常動詞の原形にedを加えれば出来上がる(play - played - played)。しかし結構な数の動詞はこの「規則」に従わない(注1)。しかも不規則に変化する「逸脱」組にはbuy(買う)、know(知っている)、speak(話す)といった使いやすい動詞が数多く含まれる。「読む」「聴く」「書く」「話す」のどれにおいても、「逸脱」組の力を借りることは欠かせない。

(注1)「英語」と一口に言っても、英米の中ですら方言があり、日本のように第二言語として用いている国では文法規則や発音・アクセントなどがさまざまに変化している。

 当然「不規則」なのだから、変化の仕方も気まぐれである。歴史の「鳴くよ鶯平安京」のように趣がある語呂合わせもない。化学の「スイへー、リーベ、ボクノフネ」のように、スピーク、スポーク、スポークン、などと口ずさみ体に染み込ませていくのが、とりあえずの妥当策である。
 こういう暗記ものに出くわしたとき、教壇に立つ人間は小テストをやりたがる。今年の春、私もそんな「黒魔術師」の一人になった。準備の成果あってか、生徒の答案は概ね景気が良い。さすが受験学年ーーと思っていたところで、一つの「解答」を見つけた。

"bring - brung - brungen"

 「普通」と異なる、ということは分かる。しかしまだ理解の途上にある。ふぞろいなものを学ぶことの難しさと意義が、そこには凝縮されていた。

 不規則動詞の壁に立ち向かう方法の一つは、不規則変化をいくつかのパターンに分類することである。原形、過去形、過去分詞のいずれも異なるつづりになるABC型(break - broke - broken)、後ろ2つが同じABB型(think - thought - thought)、過去分詞が原形と同じつづりに戻るABA型(come - came - come)、3つとのつづりが同じ無変化型(put - put - put)がある。結局、無変化型以外においては原形と変わる部分を覚えなければならない。しかし、膨大なリストをしらみ潰しに暗記するよりは多少取り組みやすくなるだろう。
 初めて出会う複雑なものを、パターンに当てはめて理解しようとする。これは英語の不規則動詞に限らず、誰もが日々の生活においてよくとる戦略だ。
 例えば、人と初めて知り合ったとき、私たちは互いに挨拶をし、簡単な自己紹介をし合う。見た目、表情、声、話し方、言葉の内容。様々な要素から私たちは、相手の印象を決める。小柄で細身、温厚、会社員。カテゴリーに当てはめ、この人はこういう人、と端的に把握する。時には、堅物だと思われないように時々冗談を混ぜ込むなど、話し手が意図的に「キャラ」を発信することもあるだろう。
 人と話す場面でなくとも、私たちは、パターンに従うことで効率的に生活している。例えば、飲み物を買うために自動販売機を使うとする。気に入った飲み物のボタンを押し対価を支払う。そのときには当然、押したボタン通りの飲み物が出てくることを期待しているはずだ。お茶を頼んだのに缶コーヒーが出てきたり、入れたはずの硬貨が投入口から射出されて体を直撃、などというギャグは求めていない。自販機は自販機「らしく」振舞ってくれることを私たちは期待している。
 私たちは人やものの「らしさ」を信頼し、自分自身も様々な場面で「らしさ」に沿うように行動する。複雑なものに突然出会いうる社会で生きていくために、私たちは複雑なものを単純に理解しようとする。複雑なものの角をそぎ落とし、既存のパターンに分類し、効率的に考えようとする。社会学の知見を借りれば、それは人間が効率的な近代社会をつくるためにとってきた戦略だという(注2)。

(注2)例えばニクラス・ルーマンは、人々が規範を信頼し、接する相手に役割通りの行動を期待することで、コミュニケーションを行う際に「複雑性の縮減」がなされるとした(ニクラス・ルーマン(大庭健・正村俊之訳)『信頼 ー社会的な複雑性の縮減メカニズム』、勁草書房、1990年)。

 しかし、パターンに当てはめても、それで「理解」しきったことにはならない。先の「自己紹介」にまつわる例を引けば、「細身」(外見的特徴)、「温厚」(性格の印象)、「会社員」(肩書き)のどれをとっても、一つの中でさえ色々なグラデーションがある。「温厚」という印象を抱いたその人は、対面しているあなたには優しいのかもしれないが、買い物をするときには無愛想かもしれないし、ゲームセンターで洞穴から出てくるワニを微笑みながら叩いているかもしれない。
 英語の不規則動詞も、パターン分類した後一番厄介なのはABC型である。分類の中でまた分類するよりは、ABC型の中で一つひとつ口ずさむ方が早い。
 さらに、必要な基礎知識を「使える」レベルにまで身につける過程では、うろ覚えによる混乱が生じうる。
 この動詞はABC、ABB、ABAのどの型なのか。分類は覚えたとして、Aと違うB、あるいはCは具体的にどんなつづりだったか。何となく、こうだった気がする。その混乱を端的に表すのが、"bring - brung - brungen"である。
 bringはABB型(bring - brought - brought)の動詞である。恐らく、ABC型と混同したのだろう。そして、確かにABC型にはnで終わるものもいくらかある(give - gave - givenなど)。
「不規則変化ってほら、あれだよ、過去形ではどっかの文字が変わって、過去分詞ではenとかくっついて長くなるやつあるじゃん。bringもそんな感じだった気がする。"bring - brung - brungen"。よし、なんかそれっぽい」
 恐らくはそんなとっさの判断で、"bring - brung - brungen"は出現したのだろう。

 しかし、私たちは果たして、"bring - brung - brungen"を笑い飛ばすことができるだろうか。「温厚」という人となり一つとってもすぐには把握しきれない複雑性に、どれだけ向き合っているだろうか。
 森山至貴『10代から知っておきたい あなたを閉じ込める「ずるい言葉」』(WAVE出版、2020年)は、複雑性に向き合う必要性と難しさを教えてくれる。「もっと早く言ってくれれば」「友達にいるからわかるよ」「私には偏見ないんで」。一見相手に配慮しているようで、実は自らを安全地帯に逃したいだけ。そんな本音が透けて見える言葉を著者は「ずるい言葉」と名付け、具体的な言葉とその背景にある抑圧構造を分析する。
 口コミの評価は分かれているが、複雑な対象を扱った論考が「分かりにくい」のは原理的に避けられない。「分かりやすい」言葉で「分かりにくい」と切り捨てる前に、できることはあったのではないか。
 活字で、あるいは音声や映像で、扱われる話題は日々目まぐるしく変わる。当然、そのすべてについて考えを巡らせ行動を起こすことは物理的に不可能である。しかし、自分が関心をもったものーー特に、否定的な意見を「物申す」相手ーーでさえ、対象への解像度を高める努力をどれだけしているだろうか。
 「よくある◯◯でしょ」「他の△△と似ているよね」「要は××ってことだよね」。
 そんな雑な括りをして安心してはいないか。自分にとって理解できない対象に接したとき、「なんか気に食わない」という印象を補強する材料ばかりに目を向け、「やっぱり意味わかんないよね」と納得して思考を止めてはいないか。
 学ぶという営みは、未知の世界に対する解像度を高める快楽であると同時に、自らの「無知」に向き合い続ける覚悟を試される刻苦でもある。

 "bring - brung - brungen"

 「正答」を書けなかった分には未だ「無知」である。しかし、解答することを放棄せず、ふぞろいな変化の中にも存在するパターンから何とか答えを導き出そうとした姿勢は評価したい。知識をつけよう、応答しようとはしているのだ。パターン化にも限界があり、結局は一つひとつ異なるものに向き合おうとしている。ふぞろいなものを学ぶことには、単なる暗記を超えた「意味」がある。
 「誤答」に偉そうにペケをつける私自身も、日々ふぞろいなものにどれだけ向き合えているだろう、と考える。分かったつもりになっていることも、外から見れば未だ無知も甚だしいのかもしれない。無知を自覚することは、さらなる学びに向かうアクセルになると同時に、言葉の石を安易に投げないブレーキにもなる。
 知に誠実であれ、自らに謙虚であれ。"bring - brung - brungen"は、学ぶ者への訓示を語っている。 

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