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沈黙は服従を意味しない

 入試本番を終えた受験生たちを送り出し、最高学年への進級を目前に控えた中2生たちとともに新たな勝負が始まる。そんな新年度を迎える、はずだった。あの木曜日、その決定があまりにも唐突に知らされるまでは。
 学校教育が2ヶ月強停止する。誰にとっても未曾有の事態を前に、勤務先の進学塾も例年とは異なる戦いを強いられた。在籍する生徒や保護者の声を受け、慎重に検討を重ねた結果、感染対策に万全を期したうえで、営業を継続することとなった。
 しかしその逡巡は序章にすぎなかった。秋入学の検討や学習指導要領に関する特別措置など「大きなこと」が様々揺れ動くなか、この小さな教室では生徒たち、とりわけ受験生たちの「氷河期」に直面することとなった。

 一度目の「氷河期」は、子どもに限らず誰もが行動を大きく制限された、3月初めから5月の大型連休までの間だった。
 部活も学校行事も、これからやっと自分たちが主役になれるという時に、自分たちの意志が介在する間もなく(注1)、学校を中心とした日常はあまりに突然断ち切られた。
 課題は与えられない、しかし家の外で遊んではいけない。春からは受験学年だから、24時間遊んでいるわけにもいかない。いつまで続くのか分からない、「休み」なのかも判別できない、のっぺりとした日々がただ目の前にある。何で、自分たちがこんな目に。
 時間通りに教室に来て、気怠げに席に座り、授業が終わるや否や自宅に直帰する。彼/女らの醸し出す空気は、そんな無言の鬱屈を表していた。

(注1)子どもの権利条約 第12条(意見表明権)
1 締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。
2 このため、児童は、特に、自己に影響を及ぼすあらゆる司法上及び行政上の手続において、国内法の手続規則に合致する方法により直接に又は代理人若しくは適当な団体を通じて聴取される機会を与えられる。
子どもの権利条約前文 外務省HPより引用(https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jido/zenbun.html、2020年10月21日閲覧)
 学童保育の場でこの条約に関するワークショップを行うと、子どもからとりわけ反響が大きいのは「意見表明権」だという。大人に対し子どもも意見表明を「権利」として行えることが、意外な事実と受け取られるらしい(安部芳絵『子どもの権利条約を学童保育に活かす』高文研、2020年)。

 緊急事態宣言が解け、小中学校では分散登校が始まった。「密」を避けるため、学年ごとに登校の曜日・時間が指定され、学級の中でも複数の時間帯に分けられる。短いホームルームから、短縮授業、通常の時間割へ。学友と顔を合わせる時間が増えるにつれ、生徒たちの顔にも徐々に生気が戻っていった。
 しかしこの頃講師陣は、二度目の氷河期到来を密かに懸念していた。宿泊を伴う行事の中止、部活の大会の中止・変更。懸念は杞憂に終わらなかった。
 勤務先の自治体では、秋頃の事態収束を見込んでか、例年1学期に行われていた学校の宿泊行事を晩秋〜冬に延期していた。しかし、梅雨以降の状況を受け、移動教室・修学旅行は中止となった。部活の「引退試合」となる大会も、分野や学校により対応はまちまちだった。再び無言でうなだれる彼/女らを前に、かける言葉も容易には見つからない。
 マスメディアでは、プロスポーツの観戦再開や、都道府県外への移動解禁を嬉々として迎える人々の姿が映されていた。
 驚くのは、生徒たちが(少なくとも教室にいる間は)従順であるということだ。小学生はわりあい隠し切れずにプンスカ怒っていることもあるが(先生も「20代」でしょ、と糾弾されたこともあった)、中学生・高校生ともなるとあまりに理知的な態度をとっている。「上」から降りてきた決定を、時に何かしら理屈をつけて、「まあ、仕方ないよね」と受け容れることに慣れている。
 届かないと分かっているブドウに向かって何度跳んでも意味はない。反抗しても押さえつけられるだけ、黙って従うのが一番手っ取り早い。無難な生存戦略を、彼/女らはすでに学習している。
 受験も、出題範囲の一部変更を除き、例年通り行われることになった。未曾有の状況のなかで、例年通りに事を進めようとする。決定は簡単だが、施行の現場では当然無理が生じる。夏期講習も、夏休みの短縮(宿題は例年通り)や部活の大会などがあるなか、生徒のキャパを超えない範囲で、しかし受験に向けた力はつけられるように、日程や内容を調整せざるを得ない。生徒は疲労を、講師はもどかしさを抱えながら、外気の猛暑とは対照的に、低体温な夏がゆっくりと過ぎていった。
 教室には、昭和の歌謡曲を熱唱する年配の方々、飲み会を終えて吠える若者たちの声が、前と変わらず聞こえてくるようになった。「Go To トラベル」は予定通り実施されるという。
 教室の外から流れてくる宴会の声や香りに、生徒たちは怒ることなく、またやってるよ、しょうがないねえ、とあまりに老成した態度をとっている。そんな光景を白板の前から見ていると、「大人」とは何なのか、時々分からなくなる。
 「禍」をめぐる一連の動きは図らずも、沈黙と冷笑が一番の適応手段であることを子どもに学ばせてしまったのかもしれない。

 子どもは賢い。大人に逆らわず面従腹背、いや、背いている腹すら見せずに黙っていることが妥当な生存戦略だと見抜いている。だから表立って反抗する人は少ない。だが大人がそれに甘えたままでは、大人から子どもへの〈指導〉の構造は世代を超えて繰り返される。
 「大人になれば分かる」「そういう決まりなんだから」「仕方ないでしょう」。傾聴を放棄した大人が子どもに突き出した切り札は、相手の成長とともに、次の世代へと継承されていく。
 とはいえ、何ができるのか。制度に関わる「大きなこと」を変えるには、マスの声を集めて「民意」に昇華させる必要があるし、時間もかかる。子育てや教育の小規模な実践のレベルでも、全てを子どもの希望通りにすることは必ずしも是ではない。ならばせめて、子どもにも「声」があること、その「声」に耳を傾けることはできるのではないか。
 例えば、「一斉休校」の混乱がピークにあった2020年3月、ある団体によって子どもを対象に行われたアンケート調査(注2)がある。選択式の回答からは、休校中の過ごし方や心情の類型や傾向が読み取れる。自由記述の回答には、この措置に対する賛同や諦観、疑問や怒りの声などが綴られている。
 当然その内容は一様ではないし、ここに挙がっているものが「声」の全てではない。この時期だからこれだけの思いが回答に溢れ出た、という側面もあるだろう。しかし、学校教育の一番の当事者が往時にこのような心情を抱いていた、という事実を見逃すべきではない。

(注2)公益社団法人セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン「『子どもの声・気持ちを聞かせてください!』2020年春 緊急子どもアンケート結果(全体報告書)」2020年5月3日付(https://www.savechildren.or.jp/jpnem/jpn/pdf/kodomonokoe202005_report.pdf、2020年10月21日閲覧) 

 大人と子どもが接する場面において、大人は経験や知識をより多く積んでいるという時点ですでに、子どもに対し権力を行使する存在となっている。「声」を聴いたうえでどんな行動をとるかは、大人にも都合があるから、相手と折衝することになる。それは決して容易な営みではない。しかし、一方的に相手から服従を強いられることと、話し合いながらお互いに関わることを決めていくのと、どちらがより信頼に値する関係性か。個人同士の人間関係から国民と国家の関係まで、答えは自明のはずである。
 未来を担う世代がニヒリズムに陥る前に、まだできることはある。

 出勤してしばらくすると、学校を終えた生徒たちが教室に顔を見せる。彼/女らは、時にふざけ、時に眠そうにしながらも、変わらず今日も机に向かっている。姿は子どもだが、心の強さは大人をはるかにしのぐものがある。この頑張りに応えられるような時間を届けなければならない。ひたむきな姿を見る度、その思いを新たにする。
 坂を登りきった先で、満開の櫻を味わえるように。一年で最も忙しく熱い季節が、もうすぐやってくる。
 

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