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安楽死を行うのは誰か~安楽死制度を議論するための手引き05(第1部)

論点:議論は国家・個人的信条・社会的慣習などから自由であるべきである

 前回の記事では、「医師はそもそも安楽死制度の実行に関わるべきでは無いのではないか」というテーマについて議論の進め方を書きました。

 今回の記事では、安楽死制度を議論する上での最大のタブー「個人的信条を安楽死制度の議論に持ち込まない」について取り上げます。

わかりやすいタブー:経済と安楽死を結びつける議論

 いきなり「個人的信条を安楽死制度の議論に持ち込まない」と言われても、多くの人はピンとこないでしょう。
 しかし、こういう発言を聞いたらどうでしょうか。

「若者が高齢者を経済的に支えきれなくなっているから、早く世を去りたい高齢者には安楽死制度を用意してあげるのが良い解決策」

 そんな暴論を・・・と感じるかもしれませんが、ここ数年間の有名人の発言だけでも、これと似たような論旨での発言は相次いでいます。
 例えば、2019年に『文學界』(文藝春秋)1月号掲載された、メディアアーティストの落合陽一氏と社会学者の古市憲寿氏の対談「『平成』が終わり、『魔法元年』が始まる」では、「高齢者に『十年早く死んでくれ』と言うわけじゃなくて、『最後の一ヶ月間の延命治療はやめませんか?』と提案すればいい」「死にたいと思っている高齢者も多いかもしれない」「延命治療をして欲しい人は自分でお金を払えばいいし、子供世代が延命を望むなら子供世代が払えばいい」「社会保障費を削れば国家の寿命は延びる」といった発言があり、それに対し多くの批判が起こりました。
 少し古いところですと、2016年に元フジテレビアナウンサーの長谷川豊氏が、「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!」と、ご自身のブログに執筆し、大炎上したことも文脈としては似たようなところがあります。
 また最近では、イェール大助教授で経済学者の成田悠輔がAbema Prime放送の中で、高齢化や少子化にともなう人口減少がテーマとなったときに「僕はもう唯一の解決策ははっきりしていると思っていて、結局高齢者の集団自決、集団切腹みたいなものではないか」と発言し、またNewsPicksの番組内でも「安楽死の解禁とか、将来的にあり得る話としては安楽死の強制みたいな話も議論に出てくると思う」と発言しています。

 このように、「国の未来/経済のために、高齢者や病者、障害をもった人などは早めに死んでもらった方が良いのではないか→だから安楽死制度があった方が良いのではないか」という考え方は、昔から根強くあるものです。しかしそれは、世界がその歴史の中で否定してきた「優性思想」につながるものであり、倫理的に許容される考え方ではありません。
 現時点における救いは、こういった発言を有名人がすると、多方面からの批判が山のように入り、炎上状態となっていることでしょう。それはまだ、日本においてこのような発言が社会的に許容されない、ということを示しているからです。しかし一方で、2016年の長谷川豊氏は当時の仕事を多く失い、実際に社会的制裁を受けたにも関わらず、2019年以降の発言した方々にはそういったものはあまり見受けられません。その発言以降も、それ以前と変わりなくメディアに出続けていますし、多くの方は過去の発言として忘れ去ってしまっているかもしれません。もちろん、社会的制裁の名を借りた私刑は、これもまた許されることではありません。キャンセルカルチャーの蔓延もまた、単にこの社会を生きづらくするだけでしょう。ただ、少なくない方々がこういった発言に対して賛同の意を示しており、また「賛成はしないけど、そういった発言を公にしてもまあアリじゃない」と考える人たちが増えていっているのではないか、という怖さは個人的にはあります。

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