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円環するやさしさと、医療のやさしさ

 やさしさって何だろう。

 今日ほど、多くの人が「やさしさ」について考える日もなかなかなかっただろう。
 一般社団法人医療リテラシー研究所が主催する「SNS医療のカタチTV」は最大で約3500人の視聴者を集めて7時間生放送で、医療におけるやさしさをみんなで考え抜いた。

 僕は個人的に「医療と和尚の、あうんの呼吸。」が、今日のハイライトだったと思っている。
 そこで出てきた概念「円環するやさしさ(慈悲)」。慈悲はある一方が相手に対して「施す」ようなものではなく、受け取る側の準備ができていないとそれは慈悲たりえない。また一方向にのみ流れるものでもなく双方向性をもつものでもあるけど、それだけでもなく、人から人へ渡っていくもの。その関係性自体が大きな生命体みたいなもので、慈悲は世界を循環し、人と人とをつないでいく。

 例えば、認知症で一人暮らしをしているおばあさんがいたとしよう。隣に住んでいるあなたは、彼女のことを心配して過ごしている。いや、正確には「もし万が一、火事でも出されたらどうしよう」と思っているかもしれない。「それに、きっと隣のおばあさんも一人で寂しく過ごすより、家族と一緒に過ごす方が幸せでしょう」と考えて、近隣に住む息子夫婦のもとに出向き、ちょくちょくプレッシャーをかけて引き取ってもらった。
「ああ、よかった。これでおばあさんもきっと幸せに暮らせるわ」
と、あなたは考える。これも「やさしさ」のひとつのカタチかもしれない。
 でも実は、彼女は料理が大の得意で、認知症になってからも手仕事は完璧。火まわりはセンサーなどをつけて安心にしてもらい、悠々自適に暮らしていた。それが「母さんが一人暮らしをしていると、ご近所さんが迷惑するみたいだから」と半ば強引に息子に引き取られたあとは、ぼーっとしていることが増え、数か月後に転んで寝たきりとなり、1年ほどで亡くなられたという。
 さて30年後。あなたも年をとり、少し体の衰えを感じていたが、一人でも元気に暮らしていた。そこに玄関のチャイムが鳴り、出てみると遠方に住んでいる家族の姿が……。
「申し訳ないんだけど、ご近所さんから……」
 やさしさは円環する。受け取る側にとっても真にやさしいものであれば、やさしく循環するし、それを無視すれば連綿と続く悲劇のタネになる。

 糸井重里さんは「もしかしたら自分だったかもしれない、と思ってみること」と表現していた。Amazonで重たい水や鉄アレイを運ばされている人の気になってみろ、それも「自分だったら」と。そして、東日本大震災もしかり。現地ボランティアとして立っている自分と、安置所に寝ている彼。その関係性も「自分だったかもしれない」。その意味で、先ほど例にあげたおばあさんも「自分だったかもしれない」と考えるなら、本当に家族に引き取られるようにするのが「やさしさ」だったのか、気づけたかもしれない。単に一方的な慈悲をかけられるだけの弱者ではなく、あなたより美味しい料理を作れ、一人でも生活ができる一人の人間であることに気づけたかもしれないのに。

 ただ、これは一人の人間同士の関係性の場合だから成り立つ円環だと僕は思う。医師と患者の関係性においては「何かが違う」。
 けいゆう先生はそこを「(医療における)コミュニケーションとは技術なんですよ」と言った。その後の彼の言い方を聞いていると、それは教育可能なものである、という話や鍛えることができるものだ、という方向になっていったから、その意味で「技術」という言葉を用いたのかもしれない。
 だけど僕は、その言葉を「患者の前に立つ医師として、圧倒的な技術をもつ存在である必要がある」という意味でとらえた。その技術のひとつとして、「コミュニケーション」も存在するということ。その文脈で言うなら、ここで医師から患者に向かう「やさしさ」は双方向に向かうものでも、「自分だったかもしれない」で置き換えられるものでもない。医師と患者の間には断崖があり、それを埋めて分かり合おうとするのは難しい。その前提に立って、双方が同じ方向に歩き出し、別々の山頂から来迎を眺めるようなものを目指すということ。そこで必要になる「やさしさ」は、心地よいものだけとは限らない。医師という専門性、圧倒的な技術を背景にして、「厳しいやさしさ」も必要である。
 これが看護師であればまた「やさしさ」の方向性が医師とは異なる。そのたくさんの「やさしさ」の重なりの中で、患者自身が自らを表現できていけるならば、それが本当の「やさしさ」なのではないかと思う。

 最後のセッションで、糸井さんとけいゆう先生の方向性が違うように見えたとしても、それはあくまでも同じ「やさしさ」を別の軸で語っていただけのこと。例えるなら、ゾウを撫でながら、糸井さんは「ゾウというのは長いホースのような動物だよ」って言っており、けいゆう先生は「ゾウは太い丸太のような動物だ」と言っていただけ。
 僕は冒頭に大塚先生が言っていた、「やさしい医療の『やさしい』は多様なんだ。だから『やさしい』は漢字じゃなく、ひらがななんだ」という大須賀先生の解釈がとても良いと思う。
 良い、やさしさ。
 悪い、やさしさ。
 受け取る側にとってのやさしさとは何か、ということを一人一人が考えて、それを受け継いで円なる環の連なりに乗せる。それを繰り返していくことで、世の中は少しずつ真に「やさしく」なっていく。

 じゃあ、西先生はきっとやさしさの本質をつかんだんですね。
 って問われたら、僕はこう言うだろう。
「ええ、ゾウっていうのはうちわみたいな耳の動物だろう?」
 ってね。

(追記)

 おかざき真理さんの、「医師と僧侶は本来同じところにいたはず」という話から、ヤンデル先生の「しかし医師はその山の稜線を超えず、生の世界のことを考える」という話と飛高和尚の「死をきっかけにして生を考える」という、袂を分かっても、出てくる結論がほぼ一緒というあたり。確かに本質的には医師と僧侶は同じところから始まっている、というのも頷ける。
 しかし、だからこそ日々死に触れる緩和ケア医は、無意識の中で「宗教者的なふるまい」を目覚めさせていく場合があるが、その「危うさ」について、明日またnoteを書きます。たぶん有料記事になりますが、楽しみにしていてください。

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