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昭和に生まれた僕らの死生観は令和でも普遍なのか。

2019年の紅白歌合戦で、「AI美空ひばり」なるものが出たらしい。
「らしい」というのは、僕がそれを直接見ていないからだ。
僕の年越しは毎年爆笑して過ごすことに決めているから、ここ最近紅白からは遠ざかっている。
しかし、いろいろな記事を読んでいると何が行われたかは想像できる。そして、それに賛否両論があることも当然だろう。

例えばこちらの武田砂鉄さんの論考。
確かにその通りだ。

「生きるというのは別れを知ること」なのだ。この一節は、秋元康・作詞による「あれから」の歌詞からの引用である。生きるというのは別れを知ることならば、こうやって、感動させる目的で死者に新しい言葉を与えてはいけないと思う。

という箇所など、全面的に賛成する。
死者の声色にのせて、生者が自らの思いを語ることは、生きるものの驕りである。死者本人が生前に、このような形で蘇らせてほしいと願ったわけでもない。「死んだことを認めたくない」「死んだあの人にもう一度会いたい」という思いは、その人にとって大切なものだけれども、それを死者の側に要求してはいけない。そういった、「これからも生きていく側」の驕った思いが、死に向かっていく人までもを苦しめていく。

死者との向き合い方は過去も未来も変わらないのか

武田砂鉄さんの論考については何も批判するものではないものの、僕はそこでひとつちょっとした違和感を感じるのも事実だ。

僕は2018年に、下記リンク先のような記事を書いた。

人が1000年生きられる時代はいずれ来る。その時に、テクノロジーと融合して拡張された身体を抱え、僕らはどうすればその身体に合わせて精神をアップデートできるのだろうか?ということがテーマの記事だ。
9000字以上ある、しかもいま自分で読んでも難解な内容ではあるが、改めてこの記事を読むと、「AI美空ひばり」を批判する声に対する違和感の正体が明らかになってくる。

それは、このような死者と生者との関係性は、過去も未来も変わらない普遍的な概念なんだろうか?という問いだ。
僕らは、昭和に生まれ、平成という時代を生き、そして令和の御代を迎えた。その歴史を歩んできた大多数の人間にとって、「AI美空ひばり」を批判したくなる気持ちは当然のことなのだろうと思う。人は必ず死に、その事実と折り合いをつけてきたのが現代の死生観だからだ。
しかしそれは、現代この瞬間にあるからこそ普遍性をもっていると言えるのであって、過去のある時代とはズレているし、そして未来にはもっと大きなズレが待っている。
それでもなお、「AI美空ひばり」を批判できるだろうか(音楽としての完成度は別として)。
死生観は普遍的な概念であるという思い込みにとらわれていないだろうか?

極端な設定は視点を変えてくれる

「1000年生きられる時代、なんてことを考えても仕方ないじゃん!俺たちはいまは人生100年時代を生きているんだから」
という批判はあってもいい。
でも、コルクの佐渡嶋さんが、ちょうどこんな記事を書いてくれていた。

「極端な設定は視点を変えてくれる」
まさに僕が、「1000年生きられる時代に」の中でやってきたことだ。
自分の死生観が普遍的なものなのかどうか?いずれ環境が変化しても、それでもなお揺るがない死生観をもっているのかどうか?
未来に意識を飛ばし、そして今に戻ってきてみるのも面白い。
僕の死生観は今も変わらず、
「これから30年を生きた人間は、その後1000年を生きられるようになる。1000年を生きられるために必要な準備はしよう。しかし僕はそれでも昭和に生まれた自分として、80歳で死ぬことを選ぶ」
である。
さあ、皆さんはいかがだろうか。


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