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1:止まってしまった心――吉田ユカの場合

 外来に現れた吉田ユカは、透き通るような白い肌と豊かな黒髪が印象的な女性だった。
 膵臓癌で抗がん剤治療中とのことだったが、パッと見た目には病を抱えているとはわからない。ただ、よく見ると少しお腹が膨れている。そこに、腫瘍か、腹水があるのかもしれない。
「はじめまして。西と申します。前医からの紹介状は拝見しましたが、今日こちらにお越しになることになった経緯をお話しいただいてよろしいでしょうか?」
 僕は電子カルテからは手を放し、体ごとユカに向き合った。ユカは少し目を泳がせながら話し始める。
「はい。去年の冬に、お腹の違和感を感じてエコーで診てもらったら、膵臓癌と診断されまして。それから抗がん剤治療を始めて、よく効いていたのですけど、最近になって効果がなくなってきました。主治医の先生からは、別の薬に変えましょう、と提案されているのですけど、私はもう次の薬を試すつもりはなくて。今のお薬が飲めなくなったら、もう抗がん剤はおしまいでいいと思っています」

 そう話すユカの笑顔は、ちょっと固いなという印象を受けた。緊張しているのだろうか。隣では旦那さんが、これまた固まった様子で座っている。
「どうして、もう抗がん剤はしないつもりなんですか?」
「ええ、あの、お電話でもお話しして伝わっているかと思いますが、私は安楽死を希望していまして」
 お、早くも核心に迫る話だな。僕は改めて椅子に腰かけ直した。
「安楽死は、病気になる前から知っていたんです。あちらではAssisted Voluntary Deathと言うんですけど。いずれは自分も、と考えていましたが、今回こういう病気になってようやく行けるなと思って。それで、スイスの自死幇助支援団体であるライフサークルに、申請書類を出しているんです。その申請が認められればすぐにでもスイスに行きたいですが、その前に具合が悪くなるかもしれません」
 その時のために、日本の緩和ケアを受けられるところを準備しておきたいと思っている、とユカは話した。
「どうして僕のところに?」
「以前から、西先生が安楽死について、いろいろと発信されているのを存じ上げていて。先生が安楽死について賛成ではないということもわかっています。でもこの先生なら、安楽死について話ができるんじゃないかなと思ったんです。私も川崎市民ですし、ちょうどよかったと思って」
 見透かされてるな、と僕は思った。
「ええと、ではどうして安楽死をしたいと思っていらっしゃっているのですか?」
 すると、ユカはちょっと沈黙を置いた後に、
「実は私、幼いころから虐待を受けていまして――」
と話し出した。

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 吉田ユカは、格式のある家の生まれで、長女である彼女は「家を継ぐもの」としてかなり厳しく育てられたのだという。その過程で両親から、身体的な暴力、たとえば馬乗りになって殴られたりとか、首を絞められたりとかを受けた。母親も止めてくれるでもなく、ただ冷たく見ているだけ……。また別の時には、父親が酒を飲んでは、蔑みの言葉をかけてくる。そして性的な虐待……。
 妹がいるが、妹は可愛がられていたのだという。両親の、妹に対する態度と、自分に対する態度のあまりの違いに、「自分は必要ない人間だ」と感じてしまった彼女は心を病み、精神科に通院することになった。そして「複雑性PTSD(Post-traumatic Stress Disorder)」の診断を受け、さまざまな治療を試みていたという。
 僕はそのとき「複雑性PTSD」という病名を初めて耳にした。これは後で勉強しないといけないな、と思いながら話を聴くことを続けた。
 精神科での治療を受けながらも、彼女はつらいという気持ちを消すことができなかった。そしてユカは、ある家族旅行の夜に「家族の見ているところで死んでやろう」と思い、ひとりで夜の砂浜に出た。旅館の窓から見えるその場所で、飛び込むつもりだったという。夜の闇と同化した、荒ぶる漆黒の波間に。
 でも、その前に付き合っていた彼に電話しておこうと、
「もうつらいから死ぬ」
 と伝えたところ、
「そんなつらいところにいないで、僕のところにおいで」
 と彼が言ってくれたという。
「それからそのまま真っすぐに彼のところに行って、結婚して、そのあとは両親には連絡していません」
 それが、いま隣に座っている旦那さんなのだという。

 まるで他人事のように、壮絶な体験を淡々と話すユカに、聞いているこちら側も「それって現実の話ですか……」と問い返したくなる。
「他にもトラウマがあります。私、そういうわけで両親からは愛情を受けずに育ったので、祖父母と仲良くしていました。母方の。実質、その祖父母に育てられたんです。でも二人が亡くなる時の体験が心に刺さっていて」
 ユカの祖父は、彼女が14歳の時に前立腺癌を患い、最後は肺炎になったのだが、彼女に祖父の死を伝えるものは誰もいなかったという。そして祖母は、亡くなる前に入院した病院でベッドに手足を縛りつけられていた。もう本人はしゃべれない状態でもあったのだが、ユカは何もできずただ「ごめんね」と言いながら傍についていることしかできなかった。その間、主治医は家族に説明がないまま交代になり、治療方針についても満足な話し合いもなく、そのまま祖母は亡くなったのだという。
「そういう、トラウマになるような思いを夫にさせたくない。だから、そうなる前に安楽死で逝きたいんです」
 無言で頷く僕を見ながら、ユカはなおも続ける。
「病院に長く入院したくないから、安楽死をしたいというのもあります。医療に対しては他にもいろいろとトラウマがありまして。たとえば、私が大学病院に入院していたとき、病棟で亡くなられた方がいたんです。がんの専門病棟で。それで、家族が部屋の周りで神妙な顔をしているのに、ナースステーションからは大きな笑い声が聞こえるんです。他の病室から苦しんでいる声が聞こえても『今日も声が聞こえますね~』って廊下で話しているのが聞こえたり。がんの専門のところなのに、こんな感じなんだ……って思ってしまって。
 他にも、婦人科を受診したときに内診(性器からの婦人科臓器の診察)ってすると思うんですけど、私を担当した医師が何も言わずに突然指を入れてきたりして……。『痛い、やめてください』って言っているのに誰も止めてくれなくて。そのときも、遠くで看護師さんが笑っている声が聞こえてくるんです。それからもう恐怖で……。
 だからなるべく自宅で過ごしたい。吐血するとか、最後の最後、そういったことで夫に迷惑はかけたくないので、そのときは病院にお願いするかもしれませんが。でも、出血したとしても輸血はしないでください。おしっこの管とか、鼻からのチューブとかも、意識がある時には入れないでください」

 彼女は相変わらず淡々と話すが、聞かされている方は耳が痛い。はたして僕らは、彼女が訴えているようなことを一度もしたことがないと言えるだろうか。
 ――いつの間にか手にじっとりと汗をかいていた。
 気がついたらもう1時間以上も話している。疲れた。すぐに咀嚼して受け入れることができそうになく、共通の終着点を見出すことができない話に、心も重くなってきていた。
「わかりました。ところで今は体の症状は何かありますか?」
「いえ、今はちょっとした痛み以外は。軽い痛み止めを出してもらっています」
「では当院に、どういった役割を期待していますか?」
「スイスでの安楽死が認められたとしても、そのときの体調によっては飛行機に乗って現地に行くというのは無理かもしれませんよね。そのときは、日本で終末期を迎えると思うんですけど、『持続的な深い鎮静』の方法を使って眠らせてほしいんです」
 ――持続的な深い鎮静。
 その言葉を聞いて、胸が詰まる。よく調べている、と思った。そして自分が最期を迎えるときの絵図を、何枚も描いてきているのだとも。

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「持続的な深い鎮静」とは、緩和ケアで使われる方法のひとつで、終末期で余命が短い患者に、耐え難い苦痛があり、あらゆる方法を使ってもその苦痛が緩和されない場合に、鎮静薬(眠り薬)を使って目が覚めないように眠らせてしまうという方法だ。
 眠ってしまえば、会話や食事ができなくなる一方で、苦痛を感じなくても済む、という効果がある。ただ、それを安楽死の代わりに用いるのは……。頭がうまく動かない。心が息切れを始めているのをはっきりと感じていた。
「具体的に、どういう状況になったら、眠ってしまいたいと考えていますか?」
 そう言うのが精いっぱいだった。するとユカは少し考えて、
「自力でトイレに行けなくなった時。それがリミットですね。その時には眠らせてください」
 と答えた。僕は、
「わかりました。自力でトイレに行けなくなった時ですね。また、その時がきたら相談をさせてください」
 とだけ言って、その日の外来を終えた。
 終わらせた、というのが正しかったかもしれない。

 僕はちょっと思い上がっていたんじゃないか。
 吉田ユカと話せば、安楽死を望む理由を聞きさえすれば「何とかできる」と心のどこかで思っていたのかもしれない。でも、彼女の壮絶な過去のトラウマを浴び、同時に夫への感謝と深い思いを知り、僕は正直打ちのめされた。挙句に、「持続的な深い鎮静」を安楽死の代替として利用することを曖昧にしてしまった。それはきっと、正しいことではないのに。
 彼女たちが出ていった診察室で、僕はどうしようもない無力感に襲われていた。
 彼女にとっての「日本で安心して死ねる場所」は、安楽死の代わりに眠って過ごす場所、ということなのだろうか……。本当に、それだけしか選択肢がないんだろうか……。
 いくら考えようとしてみても、もう僕の心も頭も、考えることを停止していた。

(写真:幡野広志)

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