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ぼくは鳥居に向かって石を投げない。

(写真:幡野広志撮影)

「日本人は、死について考えなさすぎですよ。もっと死について考えた方がいいですよね?」
と同意を求められることがある。それは僕が緩和ケア医だからだろうか。死について人よりはたくさん経験があるから、当然そう感じるでしょ、と思われているのかもしれない。
そんな時僕は、
「そうだね」
と答えながら、「そうかな?」と思っている。

死は誰にとっても近くにあるものだけど、本質的には誰にとっても遠くにあるものだ。死の瞬間まで人は生きていて、この世に死んだことがある人はいない。
そんな死について考えるよりも、もっと大切なことを見落としている気がする。
そう、僕たちは死に向かって歩いている中で、その身にまとっていた自分を守るための「鎧」を、ひとつひとつ脱ぎ捨ててきているんじゃないかということなんだ。

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「神社の鳥居に向かって石を投げる人はいない」

僕はそうだ。あなたはどうだろうか。
たぶん、ほとんどの人はそんなことはしない。
でも、
「じゃあ君は、神道の信仰者なんだね」
と言われたら、いや違う、とほとんどの人が答えるだろう。

僕は緩和ケアの外来で、全ての患者さんに「信仰がありますか?」と尋ねているけど、その答えのほとんどがNoだ。
日本人のほとんどが無宗教と言われるし、みんなそう思っている。

でも実際には、日本人は信心深い民族だ。
初詣には行列ができるし、節分には豆を撒くし、鳥居には石を投げない。
もっと身近な例でいえば、お辞儀をしたり、お箸を使ったりするのも宗教由来だし、「もったいない」なんて言葉もそうだったりする。

信仰というのは本来、僕たちのこころを守る「鎧」のようなものだと思う。
別に、神様仏様を拝むなんてことがなくても、「あなたはお祖母ちゃんの生まれ変わり」とか「お父さんが空から見守ってくれているよ」って言葉に違和感を感じないなら、あなたは先祖(死者)とのつながりの中で自らの生死を扱う「鎧」をもっている。そのちょっとした意識下の意識が、生者と死者の枠を超えて、人が孤独になることを防いでくれる。
人が死に向かっていく中で、こういった「無意識の信仰心」が意外と心を支えることがあるのを、僕は何度も見てきた。

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でも、こういった「無意識の信仰」すら喪われつつあるのが今の日本のような気がしている。
無意識の信仰は、家(イエ)制度や生活習俗の中で、親から子へ脈々と受け継がれてきたもの。生活の中に溶け込み、知らず知らずのうちに育まれてきたもの。
逆にそれほど生活と一体化してきたが故に、ひとつひとつの作法や儀礼の意義を知る人も減った。そして習俗は単なる「儀式的なこと」に成り下がったあげくに、イエ制度の崩壊や多様な価値観の追求の結果として伝承もなされず、これまた「知らず知らずのうちに」喪われていく。
その結果、イエや信仰といった「自分を守る鎧」としての枠組みが弱くなってしまった現代の日本人は、裸同然の「剥き出しの個人」として死と対峙しなければならなくなってきている。

依るべきものがなく孤独となってしまった「剥き出しの個人」は重い病を得た時に、医療を信仰の対象とし、医師をその使徒として頼る。しかし医療は宗教ではなく、その信仰心を受け止めきれるほどのものではない。そのため、いわゆるニセ医療やスピリチュアル的な「宗教っぽいもの」に人々が取り込まれ、悲劇の原因となっていく。

僕たちはもう一度、鎧を取り戻すことができるのだろうか。
そしてそれを、自分たちの子供世代に伝承していけるのだろうか。
とりあえず、「ていねいな暮らし」をしてみるだけでもいいのかもしれない。
お箸をきちんと使う。きちんと挨拶をしてみる。玄関を掃き清めてみる。
お盆には墓参りをするとか、子どもを七五三に連れていくとか、厄年のお祓いをするとかも、「ていねいな暮らし」。
そうやって、伝承されてきたことを喪わないようにしていくことのほうがよっぽど、「死について考えよう」なんてセンセーションに見えることよりも意味があるんじゃないかなって思う。

とりあえず、いまはみんな鳥居に石は投げない。
石を投げることも多様性だよね、なんていう未来が来ないことを願っている。

付記
そもそも「日本人は死を避ける、けしからん」というのも、伝承が喪われた結果ではある。
元々は、死を「穢れ」として扱い、日常生活から排除することは、「死を忌避し遠ざける」のではなく、それが他のどのような営為とも異なる、最重要なものであることを明示する「儀礼的行為」だった。
これは、日本だけの特徴ではなく、世界の他の国々でも見られること。
死を「穢れ」をもたらすものとして、死者への儀礼(葬礼)をきちんと執り行うことで、その「穢れ」を取り除き、死者を安寧に「あの世」へ送り出し、生者は生者の世界へ戻ってくる、という儀礼だった。
しかし、近年では葬礼は簡素化され、プロの業者にすべてお任せという家族が増える中で、葬礼は単なる「儀式」に過ぎなくなり、その儀礼的行為の意味が失われてきている。儀礼的な意味づけであった「穢れ」は単にそのイメージだけが残り、「死は穢れたもの=日常的に忌避すべきもの=普段は考えるべきではないこと」というように、死から人々を遠ざけるようになっていった。
また、近代医療が病と死を病院に集約し、家族を死の現場から遠ざけ、見せないようにしたことで、一般市民にとって死はより遠い存在となった。

ただし、死をほとんど目にすることがなく、死の問題に煩わされることのない現代の状況は、人間社会が希求した理想的な状況ともいえる。古来、生まれ落ちたその時から周囲に死があふれ、自分が今日にも明日にも死を迎えるか全くわからない世界では、「死」という概念をそれぞれが自分の中で乗り越えなければ、生の問題の解決を考えることも困難だった。しかし、近代では医療や公衆衛生、栄養の改善など様々な進歩によって、人間は死の問題に煩わされることなく、日常生活に没頭することが可能となってきたともいえるのだ。
だから僕は少なくとも日本においては「死について考えよう」って啓発していくことよりもまず、「知らず知らずのうちに喪われようとしている、先祖から受け継いできたもの」にも目を向けた方がいいんじゃない?って思う。それを大切にした方がよっぽど、死に向かう旅の中で個人が護られると思うから。

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