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6-1:安楽死の議論はやめたほうがいい ~宮下洋一に会う (前編)

 幡野広志に会った後、僕にはもう一人どうしても会っておきたい人がいた。
 それが、高願寺で安楽死について対談した、在欧州ジャーナリストの宮下洋一だ。
 宮下は、吉田ユカがエントリーしようとして断られたスイスの自殺幇助団体・ライフサークルをはじめ、ヨーロッパやアメリカの安楽死事情を取材して『安楽死を遂げるまで』(小学館)という本にまとめて日本に紹介した方。最近は、神経難病を患った日本人がライフサークルで安楽死を遂げるまでを密着取材し、『安楽死を遂げた日本人』(小学館)という本を上梓して日本中に衝撃を与えた。

 宮下は、安楽死で死に至るという方法自体は否定していないが、日本の文化の中でそれが性急に法制化されることに警鐘を鳴らし続けている。幡野とは別の考え方をもち、海外に暮らしながら取材を続けてきた宮下に、「安楽死制度があっても、それを使いたいと思う人をひとりでも減らしたい」という僕の考えを聞いてもらいたかった。
 そこで、宮下がスペインから日本に来るタイミングで時間をもらって、病院まで来ていただいた。病院に現れた宮下は、僕がその考えについて、ひと通り話すのをじっと聞いた後、腕を組んで少し考えこんでいた。そして、まず言ったことが、

「日本において安楽死をしたい人を一人でも減らそうと思うのなら、あまり啓発活動をしないほうがいいのではないでしょうかね」

 という台詞だったことにちょっと驚いた。
 いや、ちょっとではない。だいぶ驚いた。マンガだったら「ええーっ」と言って顎が30㎝くらい下に落ちるくらいには驚いた。2冊の本を書き、多くの取材を受け、日本における安楽死の是非について議論の題材を提供してきたジャーナリストの宮下から、まさか「もう啓発しない方がいい」という言葉が出るとは思わなかった。

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「宮下さん、そ、それはどういう意味で……」
 僕は顎が外れながらも宮下に尋ねた。
「いま、ちょっと世論が騒ぎすぎているのがあるように思っていて。がんや精神疾患をもっている患者さんに負担……負担というか希望を抱かせてしまっているのではないかと。僕も色々な意見を言われますけど、たとえば日本で講演をします、という情報をSNSで発信すると『日本では法制化をしないほうがいい、という発言はくれぐれも控えてください』というようなメッセージが送られてきたりとか」

 顎が少し戻ってきたところで、また衝撃的なことを言われて僕の顎は外れっぱなしだ。
 どうやら宮下を安楽死反対派とみなして、「余計な発言をするな」とけん制する安楽死賛成派がいるらしい。以前に幡野が、「安楽死について一番迷惑なのは『まともでない賛成』。『安楽死ができるようになると医療費が減る』とか。いま本当に欲しいのは、安楽死に対する『まともな反対』です」と語っていたことがあったが、そういう下らない横やりは、安楽死を求める人たちの首を自ら絞めるだけではないのか。

「誤解されているところもあると思うんですけど、僕自身は安楽死には反対はしていない。『人の死に方に口を出す』というのは一番正しくないと思っているので。ただ、文化的な面において、日本で法制化をすると何が起きるかということについて、日本に住んでいる日本人にはよく見えない部分があると思っているんです。自分たちの国民性、たとえば外圧に対してどれだけ耐えるのが苦手なのかとか。
 僕はよく集団主義とか個人主義とかっていう言葉を使っているんですけど、日本はもう個人主義で、自分の思いが世の中に通用するとか言っている方がけっこういる。でも、実際に日本に帰ってきてみると、やっぱり日本は個人の意見が通らない社会だと感じるので、そこはすごく大きなことだと思います」
 なるほど。宮下の一連の発言には驚いたが、彼は日本で性急に法制化の議論が進むことを危惧し、その予防策としてこのような発言をしていたのだろう。

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パンクするスイスの現場

「今回、ある講演で議論になったのは『耐え難い痛みって何なのか』という点。その解釈について最終的には医者が、患者の痛みを理解したうえで、安楽死とかをさせるわけじゃないですか。その判断基準ってどうなっているんだろうって。そこがはっきりしないと、そこから『すべり坂』になっていってしまう。だって、患者が『痛い』と言ったら、それを信じるしかないわけじゃないですか。心の痛みであっても。
 それが、日本の社会においては周囲との関係によって『痛く感じてしまう』こともあるんじゃないかと思うんです。そういう文化的な背景がある中で、安楽死の議論をし過ぎると、『そういった方法もあるんだ』という期待を抱かせることにもつながるのではないか」

 日本人は、自分の考えよりも他人の考えを重視しがちだ、と宮下は言う。確かに僕の見ている現場でも、実際にそのようなことは起きていると思う。そんな日本で安楽死の議論をすること自体が残酷なのではないかと、宮下は時々、考えることがあるという。
「自分もこれだけ安楽死について書いてきたけど、特に終末期患者や難病患者に対して、ある種の希望を抱かせてしまったのもあるかもしれない。患者によっては、知らないほうがよかったという見方もあるでしょう。
 けれど医療界や法曹界においては、僕が本を出してから、議論が加速しているのも事実で、知るほうがよかった人たちもいる。世の中の議論というのは、こうして始まっていくものだと思うし、僕の仕事はその役割を果たすことに尽きます。だから、もし安楽死を避けようという考えであれば、今までの日本がそうだったように、その件について議論をしない、というのもひとつの選択肢だと思うんですよ。
 少なくとも、その議論をするか、しないかを考えていただくための情報は提供できたのかな、とは思っています。正直、ここから先は、政治家でも医師でもない僕が介入する余地は、ほとんどありませんから」

 宮下が言及した「すべり坂」というのは、安楽死議論をするときに必ず問題となる懸念のひとつ。安楽死制度が最初は慎重に運用を開始されたとしても、次第にその適用となる対象が広げられていって、恐ろしい事態に発展するのではないかということだ。
 たとえば、最初は「身体的な苦痛があり明確な意思表示ができる余命数ヶ月の成人」だけが安楽死の対象だったのに、世間が安楽死に慣れてくるにしたがって、「精神的苦痛も対象だ」とか「意思表示は事前に書面で残してあればいい」「余命の制限も無くそう」「子どもにも行うべきだ」などと、法の解釈を曖昧にしながら対象を広げていく。
 その行きつく先は、「障害があったら死にたいに決まっているから、周囲が忖度して死なせてあげよう」「あんな状態でよく生きてられるよね」といった、死への同調圧力だ。それによって、本来なら生きたいと願っていた人が、死に追い込まれるのではないかという懸念がある。
 一方で、それに対して幡野は「生への同調圧力」という言葉を用いて、反論している。患者側が、医師や家族から「生きていてほしい」「命を大切にするのが当たり前」だと、まるで死が悪いことであるかのように責められ、穏やかな死への道を奪われ、望まない生を強要されている、と主張する。

 宮下が続ける。
「日本では安楽死ができなくても、スイスに行けば……とみんな思っているんでしょうけど、実際にはスイスの現場もパンクしている。
 それで、いまスイスでは新規の受け入れも停止してしまったんです。日本から、今まで年間に2人くらいしか申請がなかったのが、僕の本が出てから一気に50人とか申請が来たと言っていましたから。
 そもそもライフサークルのエリカ・プライシック先生の目指すところは、外国人がスイスで安楽死をするのではなく、自国で安楽死ができるようにすること……彼女の今の活動はそのための啓発活動という面がある。だから、スイスでいまそういった現状がある中で、日本人が安楽死を求めてもできないのであれば、メディア的な視点で言えば、そっとしておくというのもいいのではないかとも思うんです」

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 うーん……。僕は考え込んだ。
 宮下は「自分の本が出たことでこれだけ議論が盛んになった」と言っているが、本当にそうなんだろうか。
 むしろ、これまでも安楽死を望むほどに値する苦しみを患者は感じていたけど、それが隠されていたというだけなんじゃないだろうか。安楽死ということが頭によぎったとしても、それを願うことすらはばかられる世間の空気の中で、口をつぐむ以外に道がなかっただけではないのか。
 それに、これまで死に向かっていく過程の中で、日本には緩和ケアという選択肢しかなかった。しかし、宮下などが「海外では安楽死という選択肢がある」ということを示してくれたおかげで、じゃあその選択と比較して日本の緩和ケアが十分なのか? と言われたとき、十分とは言えないということがあらわになったという面はある。
「その意味で、日本ではもっと緩和ケアを充実させていく必要がある、という議論が盛んになったことは、僕らからしてみたらいい部分もあったと思います」
 と言った僕に対し、宮下は「そこは、緩和ケアがあるから安楽死はいらないのか、という議論になっていく気がするんですよ」と言って、話をつづけた。

「安楽死と緩和ケアの境目がわかりにくい領域もあったりする。そもそも、緩和ケアのことすら一般的には知られてない部分が多い現状の中で、安楽死について議論する必要なんてなかったのかなって。
 日本人が本当に求めているのは尊厳死と緩和ケアの部分であって、安楽死とはき違えてしまっている面がある。安らかに死ねる、って意味で安楽死がベストだって思われてしまっているけど、そういうことではないし。
 ただ単に長生きだけさせられているって状態がどうなの、って話だったら、それは尊厳死の法制化の道に行くのがいいのかもしれない。痛みがあるから安楽死っていう方もいるけど、それは緩和ケアがあるから大丈夫っていう理解が不足している。
 そういった意味で、取材をしてきてなんとなく思うのは、日本人には安楽死は必要ではなかったのかなっていうことです」

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 僕は、幡野さんが先日おっしゃっていたことですが、と前置きして、
「緩和ケアにおいても、どの医師にかかっても患者の意志が尊重される……つまり医者や家族のポリシーに左右されないで生きられることが保障されているならいいけど、実際にそうなっているかというと信じられない。だから、患者側がいつでも安楽死というカードを持っていることで安心できる面があると言っていました。そこについては緩和ケア医側の問題もあると思いますが――」
 と伝えると、宮下は僕の言葉にかぶせるように、
「ただ、それは逆の見方をすれば、本当は生きられるはずだった人が安楽死を選ばされる面もあるわけじゃないですか。出会った医者が、治療をすぐにあきらめてしまったり、この人は死を選んで当然って、安楽死を許可する書類に簡単にサインしてしまったりとか、そういうことも起きかねない。その意味で、いま日本で法律がないということの方が、安楽死ができないということの正当な理由になると思いますけどね」
 と言った。
 たしかに、患者側が「自分がどのように生きたいのか」というポリシーを自ら持つことがなければ、医師によって生きる方向に向かわせられることも、死の方向に向かわせられることも、どちらもあり得ることなのだ。
 まず個人の意志が独立して尊重されていない日本という国では、安楽死が制度化すること自体が早すぎるということなのだろうか・・・。

(後編に続く)

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