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#ずいずい随筆⑭:それが人の営み。たとえマニュアルだとしても。

「たいへんお世話になりました」

 葬儀社の方々が僕らにかけるその言葉に、いつも違和感をもっていた。

 僕ら医療者にとって、亡くなった方を病院から見送るのはよくあること。葬儀者の方が棺を運び、僕ら医療者は一列に並び、霊柩車が見えなくなるまでお辞儀をする――それはどこの病院でも見られる日常の光景だ。

 そんな時、葬儀社さんの所作を観察していると、業界で定められたルールがあるのか、みんな似たような手順をとることがわかる。
 棺を運ぶ。
 霊柩車の後部ドアから棺を入れる。
 ドアを「2回に分けて」閉める。
 霊柩車に向かって一礼する。
 遺族に声をかける。
 遺族を霊柩車に乗せる。
 医療者に声をかける。
 車に乗り込み、去る。

 葬儀社は「本当にこんなにあって営業できるの?」と思えるほどたくさんあるが、上記の所作は判で押したように、どこもほぼ一緒である。

 ただ、この「医療者に声をかける」というのには各社バリエーションがあって、
「お見送りありがとうございました」
とか
「こちらでお預かりさせていただきます」
とか、いろいろある。
 ただその中で、
「お世話になりました」
 というのだけ、どうしても違和感を感じてしまうのだ。

 当然だが、葬儀社の方と僕らは初対面だ。そしてご遺族とも初対面のはずだ。それなのに、
「お世話になりました」
と言われても、
「いや、あなたたちに対しては何もしてないし」
「故人のことも、僕らとの経緯も何も知らないくせに、なぜそんなことが言えるのか」
と、軽い反発を覚えるのだ。マニュアルに書かれているのか知らないけど、何を中身のないセリフをはくのかと。

 でも最近、その「お世話になりました」の意味を、少し考えるようになった。マニュアルに書かれているにしても、どうしてそんな言葉があえてマニュアルに書かれているのだろうか?

 目の前にいる葬儀社の人たちも、意味は知らないかもしれない。僕から聞くこともできない。でも僕の中でそれは、
「死者の代弁」
なのだろう、と捉えることにした。
 遺族はお見送りの際には「死者の代弁者」というより「自分たち」に戻っていることが多い気がする。悲しみに打ちひしがれて言葉も出ないほど憔悴している方々、親戚・知人への連絡に追われて余韻も言葉もなくその場から去っていく方々・・・。みんな自分たちのことでいっぱいいっぱいだ。
 そんな中、僕らに声をかけていただけることもある。
「ありがとうございました」
「皆さんのおかげさまで・・・」
 その中に
「お世話になりました」
 という言葉もある。ただそれは、死者の代弁というよりは、家族を代表しての言葉のように聞こえるのだ(それが悪いという意味ではなく)。
 一方で、亡くなったその人は、いちばん頑張ったその人は、僕らともう言葉を交わすことはできない。だから、その身柄を請けおった葬儀社の方が謹んで、
「お世話になりました」
と代弁しているのかもしれない。その一言がマニュアルなのだとしても、その言葉はもう葬儀社の彼の言葉ではない。その言葉に、死者の言葉が宿っているとして、拝聴する。

 本当は、亡くなった本人がどう思っているのかは知る由はない。当然のように、葬儀社の人も知るはずはない。それでも僕らは人と人との営みとして、死者の言葉を代弁してこの場を悼もうとする。それが仮にマニュアルの言葉だとしても、僕らは厳粛としてその言葉を受け取るべきだと最近は思う。

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