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『だから、もう眠らせてほしい』2つのテーマ

 今年の6月に上梓した『だから、もう眠らせてほしい(晶文社)』。
 note版を書いていた時から、「この物語にはオモテとウラ、2つのテーマがある」ということを言い続けてきたけど、それから10か月が過ぎたので、そろそろ僕から、その2つのテーマについてお話してもいいかなと思っている。
 もし「そんなの聞きたくない!」って方はここでnoteを閉じてね。自分なりの解釈というのを大切にすることも大事だと思う。

オモテのテーマ:緩和ケアがあれば安楽死は止められるのではないか?

 まず最初に確認しておきたいことだが、この物語の視点は一貫して「僕」となっており、その「僕=西」ということになっている。
 ただ、この物語に出てくる「僕」は、厳密に言えば僕ではない。最初は、完全に僕の思考をトレースする形で書いていたし、最後までそれで行こうと思っていたのだけど、書いているうちに「僕」が次第に僕の手から離れて、キャラが独り歩きし始める部分があった。そして、その方が2つのテーマをより的確に表現できそうだったので、そのままにした面がある。

 そのうえでひとつめの「オモテのテーマ」。これはもう本文中にも何度も出てきたように「緩和ケアがあれば安楽死を止められるのではないか?」という点。これは言い換えれば、「(広い意味での)医療によって苦痛を除くことさえできれば、病気に起因する『死にたい』をゼロにできるのではないか」という意味になる。「僕」は本文中で、その考えを強く持つ人物として描かれている。
 実際Yくんのように、緩和ケアを受けることでほとんど苦痛がなく、自宅で最期を迎えられる方々は確実に増えている。緩和ケアは10年前より格段に進歩し、「こんなに苦しむなら死なせてほしい」という思いが浮かぶ機会すらなくなってきているといえる。また、吉田ユカのように安楽死を望んでいたとしても緩和ケア病棟での有意義な時間を過ごすことだって可能な例もある。
 緩和ケアは万能ではないまでも、安楽死を望む方々に対しある程度の希望にはなる。そしてその技術の進歩は、これからも多くの患者の苦痛を緩和し、「もう死なせてほしい」という声を減らしていくことに貢献できるはずだ。
 その意味で、この本は「希望の物語」と呼ぶことができるだろう。

ウラのテーマ:医療者と患者は、どこまでいっても分かり合えることはないのでは?

 一方で、「緩和ケアがあっても全ての患者の苦悩を消し去れるわけではない」という事実がある。本文中でも、「僕」がその考えの傲慢さを及川や松本医師らにたしなめられる、という場面が何度か出てくる。人間が抱くあらゆる苦悩について、医療がその全てを解決できるはずがない(そのために本文中では「社会的処方」などの別のアプローチを試みているわけだが)。
 また、苦痛を緩和するために鎮静などの技術があったとしても、それを司るのは医療者だ。患者側の苦痛はときに医療者から過小評価されるし、苦痛に対する治療を希望したとしても、その希望通りに医療が提供されるわけではない。その全ての権利を医療者が握っており、またそれを行使する是非は、ときに科学的根拠ではなく医療者自身の死生観に左右されたりする。本文中で幡野らが批判していた通りだ。

 そして、この物語中に出てくる「僕」は、一見すると患者側の味方をし、その声をよく聞いている「いい医者」と見えるかもしれない。しかし少し掘り下げていくと「患者の味方をしているようで、医療者側にもいい顔をしようとする二面性」を持っており、その一方で「うまくやれた気がする」と思い込むナルシシズムを隠さない男だったりする。

 僕はこの物語において「本当にこの『僕』はうまくやれたといえるのか」を、読者の皆さんに考えてほしいと思っている。

 僕自身は、現実の僕を含め、この物語の「僕」も、決してうまくはやれていないと思っている。エピローグの「釧路の海で」の場面は「やり切った感」が強調されているけど、現実の僕はそのあとも、今も、ずーっと吉田ユカ(のモデルとなった患者さん)のことを考えている。本当に、あれ以上のことができなかったのだろうかと。
 それは、Yくんや、Yくんの奥さんとのやり取りもそうだ。物語の中で、「僕」とYくん・奥さんのすれ違う場面がいくつか描かれているが、それは最後まで収束しているわけではない。最後、「僕」がやり切った感を出しているから、その雰囲気に騙されているのかもしれないけど。

 僕は、この物語のウラのテーマは「医療者と患者は、どこまでいっても分かり合えることはないのではないか」だと思っている。それは、単なるコミュニケーションとして「分かり合えない」ということを超えた分かり合えなさ。よく言われる「他人と自分は異なる人間であり分かり合えない」ということよりも、もっと深いところでの分かり合えなさがあるのではないかと思う。生きるということ、生命そのものへ対しての根本的な認識の違い、とでも言おうか。
 その意味で、この本はある種の「絶望の物語」だと思っている。もちろん、その前提があったうえで、じゃあどうするか、について何とかやっていくというのが大切ではあるのだが、「僕」はその答えを提示していない(そのひとつの形を、実は看護師の及川の行動や態度が示してくれている)。

医者はどこまでも医者

 さて、いかがだっただろうか。今回の「2つのテーマ」、皆さんが想像していたものと一緒だっただろうか。もちろん、細かい点について他にも言いたいことが散りばめられているのがこの物語であり、一字一句、全てを通してのひとつの作品ではある。ただ、この2つの意図、医師側が強調したいオモテと、それを強調するからこそ陰になるウラ。今回は「僕」という登場人物をある意味レタッチすることで、陰の部分を強調した。
 一生懸命に患者のことを考える医者だとしても「医者は医者なのだ」ということだ。

 ぜひもう一度、この2つのテーマ、とくに陰の部分に注目して読んでもらえたら嬉しい。そしてそのうえで、未来においては医療者・患者・家族はどう行動していったらいいのか?ということを僕は皆さんに問いかけている。

※読者の皆様にお願い

 11/1から、紀伊國屋書店が主催する「紀伊國屋じんぶん大賞」が開催されています。読者アンケートに、コメントと共にお答えいただくことで、皆さんが選んだ人文書ベスト30が選出されるコンテストになります。
 3冊選ぶことができますので、もしよければ、皆さんが良いと思われた他の2冊と共に『だから、もう眠らせてほしい』についてもご推薦を頂ければ嬉しく存じます。何卒よろしくお願い申し上げます(12/10締め切りです)。

 さて、ここからの有料部分は「物語の中に出てきた写真について」。note版では幡野さんの写真をふんだんに使われていたのに、なぜ書籍版には使われていないのか?また、幡野さん自身がこの本を読まれてのコメントから、写真のもつ力について考えてみる。

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