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ベトナム軍事歴史博物館の日本製四一式山砲

 ハノイのホーチミン廟にほど近い軍事歴史博物館。その構内にあるベトナム国旗はためく「旗の塔」の下に、大砲が誇らしげに陳列されている。説明プレートには次のように書かれている。

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 「755大隊675砲兵中団所属の英雄フン・ヴァン・ハウ率いる第二砲兵中隊は1954年3月24日から5月7日まで戦闘に参加、ディエンビエンフーの中心に位置するフランス軍の105mm砲5門、弾薬庫1箇所を破壊した。」

 ディエンビエンフーの戦いは、フランス植民地主義との戦いでの決戦となった。フランス軍はラオス国境に近い盆地に陣地を設ければ、急峻な山々に阻まれて、敵の攻撃はないと考えた。しかしボーグエンザップ将軍率いるベトミン(ベトナム独立同盟会)軍は、1949年革命に成功した中国共産党軍の軍事的な支援も受け、大砲を山の上に人力で運びあげ、戦火をひらき、勝利したのである。

 この戦いでの勝利をきっかけにベトミン軍はフランス軍を次々に打ち破り、ジュネーブ協定の締結で独立と平和を勝ち取った。

 この大砲の砲身をみると「四一式山砲/No.1211」との文字がある。また砲台には「昭和15年4月製/No.1273/大阪工廠」などの文字も見える。実はディエンビエンフーの戦いで日本製の大砲が活躍していたのである。

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 この四一式山砲は明治41年に設計され、分解して馬や人力で運ぶことのできる野砲だ。満州事変時に歩兵用に使用され、成果をあげたため、昭和12年から生産が再開され、歩兵隊に配備、第二次世界大戦でも広く用いられた。

 中国大陸では戦後、国民党軍が日本軍の武器を接収し、その後中国の共産革命が成って、今度は共産軍がその武器を受け継ぎ、ベトナムの抗仏戦争にも提供されたものかもしれない。あるいは、日本の敗戦が色濃くなったとき、ベトミンは日本軍に働きかけて武器を譲渡するよう迫り、蒋介石軍に武器を渡すよりはと日本軍がベトミンに武器を供与した史実もあるので、この山砲もそうした武器のひとつだったかもしれない。

 同じくこの四一式山砲は靖国神社・遊就館にも展示されている。こちらはニューギニア戦線で使用されたものを戦友会が靖国神社に奉納したものだ。

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 ベトナム軍事歴史博物館と日本の遊就館に展示されている同型の大砲。かたや民族独立のための武器として誇らしく、かたや日本軍の「南進」の史実を伝える遺物としてひっそりと陳列されている。同じ型の山砲をめぐる歴史の皮肉を思わざるを得ない。(了)

参考:
・BẢO TÀNG LỊCH SỬ QUÂN SỰ VIỆT NAM http://btlsqsvn.org.vn/
・Ký ức Điện Biên: Nụ cười của chiến binh một mình bắn sơn pháo https://www.doisongphapluat.com/xa-hoi/ky-uc-dien-bien-nu-cuoi-cua-chien-binh-mot-minh-ban-son-phao-a29103.html
・四一式山砲(歩兵用)取扱上ノ参考/陸軍歩兵学校編(昭和13年)


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