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 2024年7月の日曜日、12時間のレンタカー旅。主目的地である知覧特攻平和会館に到着。途中思わぬ寄り道で思索に耽った私だったが(下掲)、

朝早く8時過ぎには鹿児島市を出たのが功を奏して、10時半には着いたろうか。そこから気が付くと3~4時間をここで過ごしたのだった。

いまだ若き青年たち

 平和会館の中には特攻で命を落とした青年たちの写真が数多貼られている。それら1枚1枚を、顔立ち、年齢、出身地など見ていくと、短かったそれぞれの人生が思われ、時があっという間に過ぎていったのだ。
 多くは自分の子どもたちと変わらぬ年齢の青年たちだ。平均年齢21歳。下は17歳から上は30代前半。最も多い18歳~23歳ぐらいの彼らには、なりたい職業もあっただろう、未来への夢もあっただろう、好きな人や許嫁もあったろう。それら全てがこの若さで途絶したのだ。言葉も無い。

 出身地を見ていくと全国各地から来ている。韓国出身の方も何人もいた。
私が生まれ、住む茨城も。日立も水戸もつくばも、どこもかしこも。茨城だけでこんなにたくさんの町や村から特攻に行ったのだな。改めて国単位での戦争の恐ろしさを感じる。

 途中、聴講室で語り部の方の話を聞いた。長野県出身の22歳上原良司さんの悲恋や自由主義への思い、小さき我が子が早い時期に読めるようにとカタカナで手紙を書いた愛知県の29歳久野正信さんの親心、宮城県出身の18歳相花信夫さんが小さい頃に実母を亡くした哀しみから一度も「お母さん」と呼べなかった継母に遺書で呼び掛けた「お母さん」。一つ一つのお話に胸を締め付けられた。

彼らが遺した手紙、ことば

 しかし彼らが遺した手紙や和歌は恨みがましくなく、父母の身体を気遣ったり、自分が死んだあとに平和が来ますようにと願ったものが多い。その心根が沁み入る。

 お母さんに宛てた手紙が多い。若い青年たちだったからでもあろう。また自分の生と死を考えたとき、自分を産んで育ててくれた母を思うのは当然のことでもあろう。
 母からの手紙「ばくだんかかえていくときはかならずナムアミダブツととなえておくれ それがははののぞみです」も痛ましい。
 軍の指定食堂となった富屋食堂の島濱トメさんが語る鮮明な思い出語りも心に残る。トメさんを「お母さん」と呼んだ青年・少年も多かったという。故郷の母に本当は呼び掛けたかったろうけれど、親身になってくれた食堂のトメさんに母性というものを見た思いであったのだろう。

 遺書、手紙などに楠公、桜花という言葉が多いのも気が付く。皇民教育の影響であろうか。あるいは楠公のように生きる、桜花のように散る、ということに特攻する自分を無理にも重ね、自分を納得させようとしたのでもあろうか。

三角兵舎(復元)のなか

 彼らが出撃までの日々を過ごした半地下の小屋、三角兵舎に佇み、冥福を祈った。

92歳、藤城清治の祈り

 影絵作家藤城清治は自身も海軍の予備学生であった方だが、友人を特攻で亡くしている。92歳にしてこの地を訪ね、改めてその友の名を名簿に見た時、涙が溢れたという。彼への思い、祈りを籠めて大作影絵を高齢にもかかわらず、成した。そのレプリカが展示室入り口にある。ロビーは写真撮影可ということであったから、撮ってもよかったのかもしれないが、その気持ちにはなれなかった。じっと目で見て、ただ心に焼き付けた。

結び

 死んでいった多くの若者たちに心から哀悼を捧げたい。数で言うのではなく、一人一人の名前とその遺したことばを受け止めたい。今平和で生きられていることに感謝をして、それを繋げていく努力をしたい。

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