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 夏、蝉の声を聞いていると、過去を振り返りたい心持ちになるのは何故だろう。

 春は蕾がふくらみ、これからの成長に心を馳せる季節と言えるだろう。秋は作物の実りに心も豊かに満ちる。冬は寒いからこそ、人の温かさを感じ、春の到来を待つ穏やかな気持ちも生む。では夏は。夏は一年のうちで生命がもっとも旺盛である盛りとも言えるが、盛りなればこそ、「夏の終わり」を予感させ、なにごとかの終焉に想いを致させる。かてて加えて、原爆投下、終戦の記憶とも重なることももあり、また帰省の季節でもあり。自分の過去、さらには人類・社会の過去などを省察する心境を生むのだろうか。

たった110年前の大逆事件、その背景

 そのような気分が私をいざなったのか、今日は大逆事件に思いを致した。

 大逆事件は1910年、今から110年前のことだ。私は10代前半に大逆事件に興味を持ったが、当時は随分昔のことに思えたものだ。しかし自らが齢五十を数える歳ともなれば、110年前などほんの最近のことと思えてくる。

 先だって映画を観て、その後関連文献等をひもといているデルス・ウザーラとアルセーニエフ隊の極東探検は1902年と1907年のことであった。それと非常に近い時期だったことが、時代背景として思い浮かぶ。

 大逆事件の起きた日本と、アルセーニエフ隊に極東探検を行わせたロシアと、その二国間で起きた日露戦争が1904年から1905年のことだ。これらは当然つながったできごとだ。日露の緊張が高まっていればこそ1902年にアルセーニエフ隊に「地誌上の空白地帯であった極東ウスリー地方」の探検調査を命じたわけであり、ロシア敗戦後の1907年にも更なる調査をさせた理由でもあろう。そもそもデルスとアルセーニエフ隊らが探検に出発した地でもある極東の港町ウラジオストクの名が「ウラジ=征服する」「ヴォストーク=東」、つまり「東を征服する」の意であり、1860年に北京条約により清から外満州を獲得して沿海州を設置、ウラジオストクの街を建設したのは日本征服を見据えたものであったわけだ。

 一方、日露戦争に勝利した日本は、さらなる権益の拡大を求めて韓国併合に乗り出していく。前年の1909年にはその動きへの反発として安重根による伊藤博文暗殺が起きたキナ臭い世相。軍人宰相桂太郎らは政府・軍への集権を進め、大陸に進出しようとする。そんな彼らにとって差別問題解消・平民の権利を主張・軍拡路線反対・非戦を唱える社会主義・無政府主義者らは邪魔で仕方が無かった。

 1910年5月25日、山梨県で爆弾を製造していた宮下太吉を爆発物取締罰則違反の容疑で逮捕。政府の意を受けた検察はこれを奇貨とし、幸徳秋水ら社会主義・無政府主義者らを明治天皇暗殺計画の一味として次々逮捕、当時の刑法第74条大逆罪に問う。大逆罪とは天皇および皇族を害すること、あるいは害そうとすることを罪としたものだ。そして大逆罪はいきなり大審院のみで裁決。控訴無し。証人も一切無し。判決は有罪(=死刑)と、無罪しかない、という恐ろしいものだ。しかも12月に開廷した裁判は、たった1カ月で結審し、幸徳ら24人に死刑判決を下す。翌日「天皇の仁慈」により半数の12人を無期懲役に減刑。判決の6日後には死刑判決維持の12人のうち11人を処刑、その翌日には残る1人も処刑、と法治国家とは思えぬ所業がなされた。

 このように不穏分子を投獄した上で、政府は8月29日には韓国併合を実行したのである。

 ロシアは東方経営戦略上の見地からだろう、露朝密約以来、長年にわたり韓国支援を続け、欧米列強の中でも最後まで韓国の後押しをしていたが、既に1917年のロシア革命も予見されるような国内事件が連続しており、東方に目を向けている余裕は徐々になくなっていっていた。そのため韓国と断絶、日本との協調路線への切替が行われた。

 かように、大逆事件とロシアの東征路線、日露戦争、韓国併合は繋がっているのであった。

埋もれた声~大逆事件~

 大逆事件を振り返るために、ちょうど10年前の2010年8月22日に放送されたNHK番組『ETV特集 埋もれた声~大逆事件』の録画を観た。この放送も8月にされているのは冒頭に書いたように「省察の季節、夏」ゆえだろうか。

 この番組が扱っているのは前段に記したような国際的背景でもなければ、桂太郎ら軍閥内閣による政治の酷さでもない。フォーカスしているのは民衆の愚劣さ、差別構造内の差別、だ。

 大逆事件に連座した26人のうち、実に6人が和歌山県新宮市とその近傍の者たちであった。そこを核に番組は描かれる。彼ら6人は6人ともに死刑判決、翌日に、うち4人が無期懲役に減刑となる。死刑に処されたうちの一人、医師の大石誠之助は患者たちから「ドクトル(毒とる)さん」と慕われた人。ガラス戸を三回ノックすればそれはお金のない患者という合図で、お代無しで診てくれたという仁者であった。昨今改めての顕彰が特に進んでいる方だ。アメリカやインドへの留学の経験もある方で、キリスト教徒として社会のために生きた。こういう方が開業している、そういう進んだ街であったわけだ、本来の新宮は。

 捕縛された彼ら六人が集い、部落差別問題に取り組んだのは実に早い時期であった。幸徳秋水・堺利彦らによる1903年の平民社結成よりもだいぶ前から、新宮およびその周辺の部落差別を無くそうと精力的に動いていたようだ。彼らは被差別部落の問題のほかにも、非戦、公娼制度廃絶などに真剣に取り組んでいた。その彼らが集まっていたのが浄泉寺。住職の高木顕明も信心深く、社会問題にも熱心に取り組む僧侶だった。宗教の違いなど気にせずに大石たちとともに熱く語らっており、集会の場所としてお寺をいつも提供していた。その一環として幸徳秋水が和歌山に来た際、浄泉寺で幸徳の講演が開かれた。それが大逆事件の2年前、1908年のことだ。これは幸徳が大石誠之助、高木顕明らの活動を聞き及んだからこそであったろう。しかしこれがゆえに、大逆事件という大獄時に、彼ら新宮の六人が捕縛される悲劇に繋がる。

 そのこと自体がもちろん悲劇だ。彼らは明治天皇暗殺計画など一筋も知らなかったであろうからだ。この機会に日本じゅうの反体制分子を一掃しようとした、時の政府による粛清であったとしかいえないこの悲劇。

住民による逮捕者家族への仕打ち

 しかし、この番組が眼を向けているのはその先だ。彼らの家族が見舞われた悲劇。例えば逮捕者の子どもらは、学校の先生からも「国賊の子」と呼ばれる。同級生たちからも無視をされる。みなで天皇陛下のご真影を拝むとき、先生から「お前はあっちに行っとれ」と差別される。家に投石される。学校で何か起きると全て自分のせいにされる。ちょっとなにかしようとするたびに監視している特高が飛んできて何をするかと誰何する。こちらは単なる子どもなのに…。従軍しても同期が上等兵になり伍長になりしても、自分だけ二等兵のまま。終戦時に一等兵に形だけなっただけ。就職しようとしても面接もまともにしてもらえず、いつまで経っても就職できない。残された妻子は街を出た方が少なくない。食べるにも事欠き、娘は遊郭に行かざるをえなかったりもした。捕縛された六人のうちの一人、25歳と若かった僧侶峯尾節堂が住職を務めていた寺も「逆徒の寺」と呼ばれ、その寺の門徒たちまでもが差別を受けたらしい。このような周囲の苛めとしか言えない仕打ち、その構図にこそ目を向けた番組作りだ。

 彼ら住民は「国賊を生んだ街」として自分たちの街が、外部から目の敵にされることを恐れた。そのために自分たちは同じではない、彼ら異分子をきちんとはじき出している、という姿勢を見せたのだろう、ということが丁寧な取材であぶり出されてくる。今に続く日本の「ムラ社会」の負の側面がここにもある。

国家・社会の問題は我々一人一人の問題

 昨今、冤罪により逮捕された方たちの復権・顕彰が進められているが、その動きを進めている住民の方たち「大逆事件の犠牲者を顕彰する会」が開いたシンポジウムで、その代表者が「これは私たち自身の問題だ」と挨拶されていたのが救いだった。

 そう、これは私たちみな、一人一人の問題なのだ。それを最もあらわしているのが浄泉寺の住職高木顕明のことだ。浄泉寺が属する真宗大谷派(東本願寺を本山とする)は逮捕された高木顕明を擯斥(追放・除名)処分とする。これにより彼の妻子も寺を追い出されるという仕打ちに遭う。

 そして番組内では言及されていなかったが、顕明はこの仕打ちに気を病み、無期懲役として収監されていた秋田監獄で4年後の1914年、自殺しているのだ。

 真宗大谷派が過ちを認め公式に謝罪、擯斥撤回を表明するのは1996年。擯斥から85年余、顕明の自死から80年余が過ぎてからのことであった。彼の妻子、親族も苦しんでいたことを考えると、もう少し早くできなかったのだろうか、と考えてしまう。

 擯斥撤回、僧籍復帰ののち、浄泉寺で毎年開かれているという顕明の法要には東本願寺からも僧侶が訪れている。その方は真率にこの問題を受け止めていることが伝わってきた。彼は番組の取材に、こう話していた。「擯斥撤回という公(おおやけ)の復権に意味を与えるのは私たち一人一人だ」と。単に公の復権が成されても意味がない、私たち一人一人がこの問題にしっかり向き合うことが真の意味での復権をもたらす、ということだろう。

 私は首肯すると同時に、その逆のことも思った。冤罪や擯斥に意味を与えたのも我々一人一人なのでは、ということ。国が何をしようとも、それが与える影響は実は本来的には限定的なものであったはずだ。少なくとも本人のみに限定されたはず。それを家族への迫害に繋げたり、一生をかけて五十歳近くまで僧侶として懸命に生きてきた人の僧籍を剥奪して妻子を追い出したりにまで広げてしまったのは「私たち一人一人」なのだ、ということ。

 国家と個人、という問題を改めて考えざるをえない昨今の世情を見るにつけ、真剣に考えるべき問題だと思う。

 顕明が自死した1914年に第一次世界大戦が勃発、日本も参戦する。そしてより本格的に日本が参戦することとなる第二次世界大戦の開戦は1939年、それから25年後のことだ。ここへも歴史は繋がっていく。国家による個人への暴力は戦争へと繋がるということ。現在の香港への圧政、日本国内でも見られる公権力の拡大傾向は見逃してはならない芽と言えるだろう。今を戦前にしてはならない。

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