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エロスの画家・高橋秀の物語(6)【アートのさんぽ】#14

1960年代からイタリアに渡って国際的に活躍した「エロスの画家」高橋秀(1930年生)。1963年にイタリア政府招聘留学生としてイタリアに渡航し、ローマ美術学校に席を置く。そして何もしない1年間を過ごそうと決心する。その象徴が、40日間にわたるスペイン旅行であった。はたして高橋はスペインで何を見たのだろうか?
 
 


イタリアに渡る


 
 高橋秀は1963年、イタリア政府招聘留学生に応募し、イタリア文化会館で行われた選考会に臨んだ。その時の試験官であった美術評論家の河北倫明は、その選考について次のように述べる。
 「まだ30そこそこであった高橋君が、試験場に大作をたくさん担ぎこんで並いる日伊の試験官たちを驚かせた情景を、私は今でも忘れない。同君の真摯で、ひたむきで、しかもニコニコした態度は、多くの人々に好感を持たれた。同君の中には、鋭敏で柔らかな感受性と同時に、捨身の男らしいいさぎよさがあった。この人なら、きっと何かやるだろうという期待を試験官たちに抱かせたようであった」と。
そして高橋は見事にイタリア政府招聘留学生に選ばれた。
同年11月、まず単身でイタリアに向かうことにした。

イタリアへと出発する高橋秀、1963年


ローマに到着後、すぐに下宿に向かった。その下宿は、娘のピアノの先生の兄で、一足先にイタリア政府招聘留学生としてローマに住んでいた人物に紹介してもらった所である。
そこには、下宿屋の女主人とその母親、若い娘さんが住み、下宿人として一人のイタリア人が既にいた。彼女は料理が上手く、家族も親切で、初めてのイタリア生活を快適にスタートすることができた。
 ローマでの下宿生活とともに、留学生としての活動も始まる。
ローマ美術学校のフランコ・ジェンティリーニ教授の教室に2年間、籍を置いた。ローマ美術学校とは、もともと16世紀末に設立されたイタリアでも古い国立の美術機関で、17世紀から18世紀にかけてはイタリア内外の芸術家たちの間でも有名となり、ヨーロッパにおける類似の研究施設のモデルとなった機関である。古くから多くの国から芸術家が集い、国際的な芸術文化の形成に貢献してきた。18世紀半ばには、ヌードや着衣の人物デッサンの描画技法を確立させ、19世紀末には、現在につながる体制が整ったという古い歴史をもつ著名な美術学校である。

フランコ・ジェンティリーニ教授


しかし高橋は、この美術学校に見向きもせずに、教室にほとんど顔を出さなかった。1年の給費期間が過ぎて、もう1年の給費の申請できると聞き、ジェンティリーニ教授のもとを訪ねた。彼から、1日も出席していないので推薦文は書けないが、すぐに教室に出てきて、ヌードデッサンを提出すれば、推薦文を出そうと言われ、ヌードデッサンを提出し2年目の給費を得た。

高橋秀《ヌードデッサン》1964年


高橋は、イタリアに来たらとにかく1年間は何もしないと決めていた。ローマに到着して1ヶ月ぐらい経過した1963年12月頃、在ローマ日本文化会館の井関正昭に誘われて南イタリアを旅行したぐらいで、ひたすらのんびり過ごしていた。
1964年5月までには、ローマのジュゼッペ・マッツィーニ通りの8階建ビルの最上階に広いテラスのあるアパートを借りて下宿を出た。税制の安いスイスまで行って自家用車を仕入れた。そして日本から妻の藤田桜、2歳に満たない長男を呼び寄せたのである。
 

スペイン旅行


 
そして1964年9月半ば、スペインへ旅行に出かけた。それは何もしない、絵も制作しない1年間の象徴的なイベントであった。
高橋は思い出を次のように綴る。
「貧乏暮らしの、貧乏旅行でしたが、優雅なものでした。40日ぐらいの行程で、目的はロマネスク美術を見たいということだけでした。そういう土俗的というか、マチエール的なものに非常に興味があって、気に入った鄙びた町などには3日も、4日も滞在したり、気に入らない街からはすぐに移動したり、気ままな旅行でした。教養的に何かを得ようというのでもなく、ゆっくりした旅行だったな、というだけで、今考えてみると、よくもスペインを40日間も回ったものだなという感じです」と。
このスペイン旅行に、案内役を買ってくれた人がいた。
それが、高橋と同様に絵画研修のためにローマに滞在し、スペイン美術に詳しかった知人の三浦智子であった。三浦は、1961年と1962年に独立展に入選し、1963年に東京芸術大学の油画科専攻科を修了したばかりの若い画家であった。
彼女は、ジオット好きでイタリア政府国費留学を2回応募するものの叶わなかったため、私費でシベリア鉄道に乗ってイタリアに渡り、ローマ美術学校に入学していた。
高橋らは、ローマを出発し、途中で一泊してバルセロナに着いた。バルセロナでは、友人の彫刻家、井上武吉が待っていた。間もなく他の都市に移る予定だということで、是非スペインに来るように誘われていたのだった。
井上武吉は、高橋と同年の1930年生まれで、学生時代に出合っているわけではないが同じ武蔵野美術学校に学んでいた。井上は、1955年から自由美術家協会展に出品し、有機的なイメージをもつ金属の抽象彫刻で注目されていた。1962年、第5回現代日本美術展で優秀賞を受賞した後、1963年、サンパウロ・ビエンナーレへの出品を機に世界を巡る旅に出て、その途中でスペインに滞在していた。その後1965年に帰国し、1966年、アントワープ国際野外彫刻展に出品するなど国際的な活躍をした。
バルセロナに到着すると早速、井上と会い、フラメンコも見ようと街へと繰り出した。フラメンコのクラブでは、ダンサーの情熱的な踊りを見ながら、酒を酌み交わし、旧交を温めた。
その滞在中にロマネスク美術の名品を集めたカタルーニャ美術館にも行った。高橋は次のように綴る。
「ここは素晴らしい美術館だと思った。各地方の傷んだ壁画を剥がして持ち込んでいた。その修復というのが素晴らしくて、あっ、タピエスだ!というような修復跡だった。その欠落の埋め方、修理跡が、ロマネスク美術の文脈を離れて、現代美術の〔アントニ・〕タピエスのマチエールと共通性をもったように見えた」と。

カタルーニャ美術館


またバルセロナ市内の観光にも出かけた。当時はまだそれほど観光地化されていなかったアントニ・ガウディの建築も見て回った。高橋は、サグラダ・ファミリアよりも、カサ・バトリョやカサ・ミラ、公園グエル・パークの方に興味を覚えたようだった。
さらに、闘牛場に出かけた思い出も語る。
「みかん箱いっぱいになるほどたくさんの写真を撮った。望遠レンズなどカメラ一式を担いで歩いていたから、闘牛場では接写ができるぐらい柵の一番前で牛に近くと乗り出していたら、闘牛士が牛を刺すびらびら飾りつきの矢を捧げるようにもってきてくれた」。
「闘牛場は、スペイン国内で3か所ぐらいに行ったと思うが、とても日本人の気質には合わない。闘牛士にはピカドールとマタドールがいて、ピカドールは、馬に乗って槍で牛を突き刺す役、そしてマタドールは、牛の肩越しに心臓を一突きする役であった。マタドールがその心臓に止めを刺すと、耳を切り下ろして、手に掲げて、アピールをしたのち、馬がロープで牛を引っ張って退場するというものであった」。
というように、スペイン旅行の間、闘牛場を何度か訪ね、その興味は尽きなかったようだ。
 スペインの町々は、海岸沿いか内陸の台地にあり、イタリア中部のように温暖で緑豊かな気候ではなかった。海岸沿いと内陸部との高低差があり、寒暖差も激しかった。
「ある地区では、道端の販売所で瓜を買って車の床にごろごろころがして、喉が渇けばそれで潤していたが、標高の高い地区では寒くて寒くて震えていた記憶がある」。
当時はまだ高速道路がなかった時代なので、とくに内陸部では次の給油所までガソリンがもつかと心配することもあったが、内陸部は砂漠のような赤い土の大地が続き、イタリアとは異なる景観に目を奪われたようだ。
 

スペインでの旅程


 
 高橋の手元にあったスペイン旅行のメモや写真類がその後の転居など不明となっていたが、同行していた三浦の元にはその記録が残っていた。スペインでの旅程は次のようであった。
 バルセロナを後にして、タラゴナ、バレンシアを経てマラガに行った。マラガはピカソの出生地で、かの地の美術館でピカソの若いころの作品を見る。そしてグラナダでは、アルハンブラ宮殿を見て、その郊外で岩山に横穴住居を作り住んでいるジプシーの家族に出会い、家の中を見せてもらう。コルドバでは再び闘牛を見るとともに、そしてメスキータ(回教様式の残る大聖堂)に行く。アラブ様式の建造物に手を加えた馬蹄形のアーチの列柱をもつカテドラルに圧倒される。城壁に囲まれた小高い丘の街、トレドでは、エル・グレコのアトリエや教会の祭壇画を見る。その後、マドリードでプラド美術館に行き、ベラスケスやゴヤ、エル・グレコ、ルーベンス、レンブラントなどを見る。
プラド美術館である人物と出会う。ボッシュの作品を模写していた東京芸術大学出身の画家藤田吉香である。
「私は、藤田を知らなかったが、彼の方から高橋秀さんだねと言われ、共通の友人がいることを知った。じゃあ、ホテルへ行って鍋をやろうよと誘い、市場で材料を仕入れ、車に積んでいた鍋一式でパーティーをした記憶がある」という。
 マドリードからは北上し、アヴィラに寄り、ローマ時代の水道橋のあるセゴヴィアを通り、サラゴサ、ヴァラッドリッド、ブルゴスへと向かった。
ブルゴスへの途上、周囲に見たこともないローズ色っぽい褐色の土が広がっていたことに驚く。さらにクロイスターという小さな村のサント・ドミンゴ・デル・シロスという中世の教会に行く。ここに回廊の中庭あり、回廊の四隅のレリーフ、および柱頭のレリーフにおけるロマネスク様式に目を奪われた。
そして、パンプローナを通って、とくに三浦の希望でソルソーナという小さな村に行く。ここにソルソーナ美術館(美術館と呼べるようなところではなかったらしい)に「鳥と人物」という、小さくて素朴なフレスコ画があり、これを見に行く。

壁画、ソルソーナ美術館


その後、バルセロナに再度寄って、南フランス、ニース近郊のビオットにあるフェルナン・レジェ美術館に寄って帰路についたのである。
 

イタリアでの始動



高橋は、40日間にわたるスペイン旅行からローマに戻った。もう11月になろうとしていた。イタリアに来て何もせず、絵も描かないと決めてから1年間が経とうとしていた。
高橋は、その時の気持ちを次のように述べる。
「作品制作をしなかった1年間は、空白の時期というわけではなかった。おもしろいと思うのは、3ヶ月くらいたつと無性に描きたくなるのだが、それをあえて感じなかった素振りをして、知らん顔をして過ごしていた。その本能的に無性に描きたくなる気持ちを分析したり、あえて追求しようともしなかった。イタリアへは何かを求めて出て行った。日本に不満があって、そこから逃れようとして行ったと思う。その目的を細かく分析していたわけではない。ではそこに焦りがあったかというと、それも全くなし。やっぱり若かったと思う」と。
そして制作の現場に戻るのである。
 高橋の何もしない1年間を、割合に近くで見ていた人物がいた。それが、高橋より1年前からローマに住んでいた画家、阿部展也(1913-1971)であった。
「日本人である自分、その自分を含めての日本の実体をみつめ、自己との闘いが始まるのである。芸術家であり日本人である自分が、自分を代表とする日本との闘いを開始するのである。高橋君のように、日本画壇の通念を代表するようなポピュラリティーを身につけた作家の場合、この内部的闘いは痛烈なものであろう。といっても、それだけですべてが終わるものではない。十数年の間に身にしみこんでいる物の考え方、血肉化した技術は、1年や2年でぬぐいきれるものではない。」
阿部の視点は、高橋の心境を反映させたものではないが、経験を踏まえての捉え方だろう。高橋は、確かに美術団体に所属している若手作家にとって垂涎の安井賞を受賞した。日本の美術界を背負って行くことが期待され、画商たちもさまざまなオファーをしていた矢先にイタリアに渡った。
高橋自身は、確立してきたスタイルをいったん捨てて根底から見直そうと考えてのイタリア渡航であった。何もしない空白の1年間とは、そのための時間であった。
ただそれは、阿部の考えるような「痛烈な内部的闘い」とは違った。スペイン旅行で見られたような日常的で自然な姿勢だった。ときどき猛烈に湧き上がってくる制作意欲に「知らん顔」をして放置する態度であった。
ちなみに阿部展也という人物も見ておこう。
阿部がローマに住居を定めたのは既に述べたように1962年からである。阿部は、1959年に日本美術家連盟の代表としてパリの国際造形芸術連盟(IAPA)、および第3回リュブリアナ国際版画ビエンナーレの審査会に出席する途上でイタリアに足を伸ばした。パリでイタリアの画家エンリコ・バイに出会い、ミラノのバイのアトリエに招かれた。ミラノで、未来主義の画家ブルーノ・ムナーリ、彫刻家マリノ・マリーニを精力的に回り、ルチオ・フォンタナも訪ねた。1960年にミラノのグラッタチェロ画廊で個展開催し、1961年にローマのアリベルト画廊、1962年にヴェネツィアのカヴァリーノ画廊で個展開催をしていた。
 阿部は1930年代からシュルレアリスム的な有機的抽象表現の絵画を描き、1950年代は戦争体験にもとづく風刺的かつユーモラスな人間シリーズを描いた。その後、エンコーステックを使用したアンフォルメルの抽象画やエンコーステックを使った白いモノクロームの表現を試みていた画家で、その後も高橋と関わりをもつことになる。
 
 
参考文献:谷藤史彦『祭りばやしのなかで -評伝 高橋秀』水声社

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