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【アートのさんぽ】#01 四谷シモン

四谷シモンの機械仕掛の少年をめぐって

下瀬美術館で2023年10月1日から「四谷シモンと金子國義」展が開催され、その初日に四谷シモンのギャラリートークが行われた。全国から大勢のファンが広島県の片田舎に詰めかけ開演前から長い列をつくっていた。79歳となった四谷だが、その衰えない人気ぶりには驚かされた。
 四谷の話が始まると、百人以上の観客が静まり返った。四谷はゆっくり間を置きながら、天国の澁澤龍彦や金子國義に語りかけるように話しはじめた。金子との出会いや別れについての語りは、一幕の芝居を見ているようであった。何もしゃべらない沈黙の間さえ演出のようで、四谷はやはり役者だったのだなとしみじみと感じたのである。四谷シモンの創作の原点と半世紀を経たコレクターとの再会を追ってみる。


新宿から始まる

四谷が役者になる前、ロカビリー歌手を目指していた時期があったという。どんな時代だったのだろうか。
 それは、若者文化の発信地が銀座から新宿に移ろうとしていた1950年代から1960年代にかけてであった。1951年にシャンソン喫茶「銀巴里」が銀座に出来て美輪明宏や戸川昌子を輩出し、三島由紀夫や吉行淳之介らが集った。1957年にはジャズ喫茶「銀座ACB(アシベ)」が開店し、平尾昌晃やミッキー・カーティスといったロカビリー歌手が人気となった。
さらに1958年には、「新宿ACB」も開店し、山下敬二郎、小坂一也などが出演していった。その後、新宿にはジャズ喫茶「DIG」や「ピットイン」など次々と開店していく。そういう新宿のジャズ喫茶には流行に敏感な若者たちが多く集まるようになったのである。
 ロカビリー歌手に憧れて、歌手として少し活動していた小林兼光という若者もそのひとりであった。彼は、ジャズシンガーのニーナ・シモンの歌が好きで何度もリクエストしていたので「シモン」という通り名がついていた。後にアングラ劇団「状況劇場」の女形として有名になり、人形作家としての評価を確かなものとしたその人こそ四谷シモンである。
17歳の彼は新宿に通い、個性的で何者かになろうとしていた若者たちと出会っている。それが金子國義やコシノジュンコ、江波杏子、篠山紀信、高橋睦郎、唐十郎という驚きの面々である。新宿は熱い心をもつ若いアーティストたちの溜り場だったのだ。

金子國義、唐十郎との出会い

そのなかで、四谷は8歳年長の金子國義と特に仲良くなり、芝居やデザインのことなど色々な影響を受けた。金子はグラフィックデザイン、舞台美術をしていたが、唐十郎と出会って状況劇場にも関わり、舞台美術とともに女形もしていく。1966年、四谷は金子の芝居を見に行くために新宿ピットインを訪ねた。そこで楽屋の金子にあいさつに行くと唐を紹介された。その時、なぜか唐から彼のチックで固めた髪にヘアピンをつけるように頼まれた。手に山盛りのヘアピンを打てということであった。その尋常ならざる量のヘアピンに驚くとともに四谷は唐に惹かれていった。
また他日、状況劇場の芝居の稽古に遊びに行った時、役者が来ないので代役をやってみろと言われた。やってみるとそのまま本番出ろとのこと。あれよという間に1967年の「ジョン・シルバー 新宿夜鳴き篇」に女形として出演ということになってしまったのだ。四谷はアドリブを混ぜながら激しいセリフを吐き、観客に喝采で迎えられ、たちまち人気者となるのである。さらには翌年の「由比正雪」にも出演し、芸名として四谷シモンを名乗るようになる。

澁澤龍彦の衝撃

もうひとつ1960年代の大きな出来事としてフランス文学者の澁澤龍彦との出会いを挙げることができる。四谷が二十歳を過ぎた1965年、東京・大岡山の古本屋で宇野亜喜良のイラストの表紙に惹かれてある雑誌を手に取った。何気なく頁を繰ると彼にとって衝撃的な写真が掲載されていた。
ハンス・ベルメールの人形の写真であった。ベルメールは、女性の身体部位を球体関節によって様々に組合せる超現実的な人形を作っていた。そこに性的な倒錯や猟奇的な性向も見え隠れしていた。四谷にとってはショック以外の何ものでもなかった。
その記事が、澁澤執筆の「女の王国」で、雑誌『婦人公論』に掲載されたものであった。四谷は澁澤のこともベルメールのこと、球体関節人形のことも何も知らなかった。
四谷は、孤独に過ごしていた幼い頃からぬいぐるみ人形が好きで、川崎ブッペの人形を真似てみたりしていた。中学卒業後は、人形作家の林俊郎の内弟子なったりしながら、1962年の「第14回現代人形美術展」(朝日新聞社主催)にぬいぐるみ人形を出品するなど人形制作を続けていた。顔の表情や手のポージングに苦心しながら、人形とは何だろうと考えていた。
その頃の四谷が目指そうとしていた人形の作り方を根本から崩したのがベルメールの球体関節人形だった。球体関節人形は、予め表情を決める必要が無くその場でポーズを変えることができる。それは彼にとって衝撃的なことであった。
四谷はそれまで蓄積してきた制作技法や材料、道具を捨て去る決意をする。それ以降、独自に球体関節人形を開発することになる。四谷は澁澤の著書『夢の宇宙誌』を繰り返し読み、人形とは何か、玩具とは何かについて考えるようになる。そうした中の1967年、金子國義に北鎌倉の澁澤邸に連れられて行き、ついに対面することになる。以後、澁澤が亡くなるまで交流が続いた。

最初の球体関節人形

1973年、四谷は第1回個展「過去と未来のイヴ」を銀座の青木画廊で開催する。澁澤に紹介された青木画廊で、澁澤の命名による展覧会タイトルでの開催であった。
19世紀の作家ヴィリエ・ド・リラダンのSF小説『未来のイヴ』に、万能の発明家エディソンが失意の青年エドワルド卿のために美しい人造人間をつくるという場面があり、澁澤はそれを着想源として、四谷の個展に「未来と過去のイヴ」という文を寄せたと考えられる。
四谷はこの個展にベルメールに触発された裸の女性の球体関節人形12体を出品した。四谷は「芝居をしていた時間からすぐに作品制作に移行したため、役者のイメージで作りました。状況劇場時代の自画像ともいえます。派手でめちゃくちゃな荒っぽさが面白いと思います」(四谷シモン『人形作家』中公文庫、198頁)と述べるように、顔は四谷が演じていた女形の激しいメイク風に油絵具で描き、体にラッカーをテカテカに塗り、陰毛を強調した個性的な人形に仕上げた。
股関節や首の球体関節の球体も大きめに作り、身体のプロポーションも一種異彩を放つ独自のものを作った。澁澤は、ベルメールの人形について「女はイヴのように男の体内から出てきた存在であり、そしてまた、隠された強烈な自己愛の変形であったにちがいない」(澁澤龍彦『幻想の画廊から』河出書房、45頁)と述べているが、四谷の球体関節人形も究極的なナルシシズムの表現であったのだ。
その球体関節人形「過去と未来のイヴ」は、先述のようにベルメールの人形写真からの衝撃に動かされた結果として出来たものである。それまでの四谷は昭和初期に始まる人形芸術運動の主要作家である平田郷陽を頂点とする人形の世界しか知らなかった。
喜びや悲しみといった情感を豊かに表現する人形を目指して「現代人形美術展」にぬいぐるみ人形を出品していた四谷にとって、球体関節人形は革命的な人形以外の何ものでもなかった。四谷は、マネキン屋さんで紙の張子による人形制作法を学びながら、独自の技法を編み出して球体関節人形の制作をものにしたのだった。

機械仕掛の少年

四谷は、バイブルのように読んでいた澁澤の『夢の宇宙誌』のかなで自動人形や機械仕掛の動く動物への言及に注目していた。18世紀の機械学者のヴォーカンソンや同じくメルツェル、ミカル神父などが手掛けた自動人形の歴史に関心を寄せていた。
人形とは何かと考えるなかで、現代の人形作家として動く人形を一度は作ってみたいと思うようになっていた。四谷のひらめきとしては、自力で動き出す人形にはぜんまい動力が必然であろうと考えた。
ただ、ぜんまい仕掛というか機械仕掛の駆動部分は自力では無理だと分かっていたので、自ら創設した人形学校エコール・ド・シモンの一期生で機械工学を学んでいた荒木博志に声を掛け、共同で制作することにした。
しかし、それは初めての慣れない難しい工程の連続で毎晩徹夜しながら作業を続けた。そして1980年の個展「機械仕掛の少年」の初日を迎えることになる。個展の初日の朝には寝ないままで搬入し、疲れ果ててそのまま青木画廊に倒れ込んだという逸話が残るほどだった。
個展出品の3体のうち2体は実際に指と目が動くように完成させた。さらに少年の顔に注目すると、前作の派手なイヴのメイクから一転して涼しげな目鼻立ちにしている。これは、その後の四谷の特徴を決定づける少女の人形の穏やかで優しい顔立ちにつながるものであった。
この時の「機械仕掛の少年」という人形は、紙の張子の胴体と内部の肋骨のような木製木枠による骨組み、その中にピアノ線やギアなどを仕込んだ複雑な構造であった。その胸部は着脱可能な作りとして、内部の機械構造が覗けるようにした。その結果として発表価格も高くなってしまった。

半世紀ぶりのコレクターとの再会

四谷が著書の『人形作家』でも述べていることだが、会場に来た人もなかなか手を出せない日が続いていた中、人形コレクターの仁田一也が現れ、「機械仕掛の少年2」を購入した。四谷にとってそれは忘れられない嬉しい思い出であり、努力が報われたと思う瞬間でもあった。その作品は縁があって下瀬美術館に収蔵されたのも不思議な巡り合せであった。
それから50年以上の時を経て、展覧会場には90歳を超えた仁田が現れた。瀬戸内海汽船の会長や日本旅客船協会会長として海運業界の振興に努める傍ら、ビスクドールなど多くの人形を収集し、自ら撮影し作品集を作り、コレクションを展示する館、星ビルを作った人物である。久しぶりに下瀬美術館で再会し、熱い握手を交わした四谷と仁田。人形を愛する二人が旧交を温めたのである。四谷は別れを惜しみつつ帰途の車に乗り込んだ。秋の陽光はすでに傾き、四谷を見送るようであった。

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