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イサム・ノグチ:原点としての日本 【アートのさんぽ】#20


イサム・ノグチ:原点としての日本

1948年、イサム・ノグチはアーシル・ゴーキーの自殺に遭遇し、深く心を痛めていた。死の直前まで一緒にいただけにそのショックは大きかった。ノグチは、ゴーキーの死を「俗物どもの社会に進んで身を投じたために起こった」ものと決めつけた。芸術家たちが名声を勝ち取り、富を得るとき、常にしなければならない現実社会との交渉、そのトラブルのなかに巻き込まれていったことがゴーキーの命を縮めた一因であったと考えたのである。
ノグチはこの事件を反面教師とし、ただ単に名声を求めるのではなく、より大きな世界に触れて真に自分自身の表現を求めていかなければ、自分も潰されていくのではないかと考えた。彫刻が本来的にもっている可能性を探し出し、それを具現化する方法を見出さなければならないと考えた。もう一度、過去の歴史的な彫刻や遺跡をこの目で確認し、人間と空間、そして彫刻との関係について考えなければならないと思った。そのために世界中を歴訪し、その人間と空間に関する見聞を一冊の本にまとめるのがよい方法だろうと考えた。その実現のために、ポーリンゲン財団というところに奨学金を申請した。
ノグチはその奨学金を受けて世界中を回った。1949年、フランスの先史時代の洞窟、イタリアの広場や庭園、バルセロナのガウディの仕事、イギリス、ギリシア、ナイル河、インド全域の寺院、そしてアンコール・ワットなどを見て歩き、1950年ついに日本に到着した。20年ぶりの来日だった。

1950年の来日

この来日はその後のノグチの活躍に大きな意味をもった。というのも積年の複雑な問題の解決の糸口をつかんだからである。それは、日本に対する、とくに父親に対する複雑な思い、あるいは自己のアイデンティティーの問題、そして現代彫刻の本質に関わる問題などであった。
ノグチにおける自己のアイデンティティーの問題というのは、自己の心の母国が日本なのだろうか、それともやはりアメリカなのだろうかということであった。1906年、2歳の時、ノグチは詩人の父野口米次郎を追って、アメリカン人である母親と来日した。しかし、父親には温かく迎えられず、さみしい少年時代を送った。8歳の時、やはり欧米人として教育を受けるべきであろうとん母親の判断のもとに、外国人学校に移り、さらに13歳の時、単身でアメリカに渡り、中等、高等教育を受けた。1931年、成人して再び来日した時、他の女性と結婚していた父親とつらい再会をした。それだけに、日本の芸術家や建築家、文化人から大歓迎を受けた1950年の再来日は、ノグチにとって幸福なものであった。父親は既に亡くなっていたが、その遺志によって40年に亘って勤めた慶應義塾大学のために教職員ホールを設計することもできた。それは亡き父親との和解でもあった。
この来日を契機として、ノグチは1950年代前半に頻繁に日本を訪れ、多くの作品を制作した。
ここでは、広島平和公園のための仕事と北大路魯山人との交流から生まれた陶の作品について触れる。

丹下健三との出会い

 1950年の歓迎会で、ノグチは建築家丹下健三に出会い、広島平和公園のプランについての話を聞いた。ノグチは大きな関心を示し、そこに参画したい意志を示したという。これは、ある意味でノグチの積年の思いでもあった。ヒロシマ、それはアメリカ人にとっては罪の意識をもたざるを得ない場所であり、まして日系人としては複雑な思いを抱くのは当然であった。
ノグチは、1942年、アリゾナ州で日系二世の強制隔離収容所にしようと、公園とレクリエーション地域の設計に協力するために入所した。しかし、その夢を抱いて計画が無効となるや、ノグチは絶望し、自発的に被収容者となったのであった。そして、その後の広島と長崎への原子爆弾投下は全くのショ ックであった。だからこそ、広島に対し何かしなければという思いをもち続けていたのであった。
 ノグチが、最初に制作したのは、1950年の三越デパートの個展でも展示された《広島の鐘の塔》という作品であった。広島の鎮魂のための塔(高さ21メートル)のモデルであったという。これは依頼されたものではなく、自らの意志で制作したものと思われる。

平和公園の橋の欄干デザイン

1951年、平和公園の全体設計の委嘱を受けた丹下健三は、広島市長浜井信三の意向を受けて、平和公園を挟む太田川に架かる二つの橋の欄干のデザインをノグチに依頼してきた。これを受けてノグチは、二つの橋を「生と死」というテーマのもとに考え、具体的なプランを急いで練った。そして、一方の橋には昇る太陽をイメージして《つくる》(当初の題名は《生きる》だったが、黒澤明の映画の題と同名となったので変更)と題したものをデザインした。ノグチにとっても記念となるモニュメントではあったが、施工に関しては必ずしも満足いくものとはいえなかった。当初、ノグチは石で作ろうと思っていたが、予算の都合でコンクリートに変更され、しかもその施工に関してもノグチの監督なしで進行してしまったという。

イサム・ノグチ《つくる》1951-1952年


イサム・ノグチ《ゆく》1951-1952年


原爆死没者慰霊碑のデザイン


1952年、橋が完成すると、広島市長と丹下健三は、平和公園の原爆死没者慰霊碑の設計を再びノグチに依頼してきた。提示された条件は、原爆死没者の名簿を納める場所を地下にすることであった。そこは死者の安らぐ場所であるとともに、次なる生の誕生する子宮のような場所でもあるというイメージであった。ノグチは、早速プランを練り、東京大学の丹下研究室で模型を作った。並々ならぬ意欲が感じられるものであった。ノグチは次のように述べている。

「意欲的な主題だ。私のものとしての彫刻でなくてもよい。……つまりエネルギーの一種の集中点として扱ってもよいと思った。私のシンボリズムは原始時代のハニワの屋根から獲た。それは恰も幼児を保護する住居のようなもので、又、生及び死をも意味する。破滅の丸屋根と平和の門……ここに表現されていないものは一つもなかった。
それは黒の花崗岩の塊で作られることになっていた。その台は下から又、向こうから光によって輝くようになっていた。そして大きな重量を支える足はコンクリートで作られその錨地となる箱を通して地面のなかに下り、又これ等の太い柱の間から出梁式に壁から出た箱から覗かれて、その箱に世界最初の原爆犠牲者たちの名前が置かれるようになって居た。」(『ノグチ』美術出版社、1953年)

しかし、建設省内に設けられていた平和公園記念都市建設専門委員会はこのノグチのプランを却下してしまった。はっきり理由は示されなかったようだが、表向きには「あまりに抽象的すぎる」とか、「分かりにくい」とか、「あまりに経費がかかる」とか言われたという。しかし実際のところは、原爆死没者慰霊碑を、日系とはいえアメリカ人に設計させてよいのかという丹下健三の師にあたる岸田日出刀などの議論があったという。最終的には、丹下健三が設計して記念式典に間に合わせた。ノグチにとっては、少々苦々しい体験であった。

北大路魯山人との出会い

だが、このようなことがあっても、ノグチは日本に対して悪い感情をもとことはなかった。というのも、ノグチはこの年、当時女優として活躍していた山口淑子と結婚したからであろうか。そして、この二人に北鎌倉の住居を提供したのが北大路魯山人であった。マスコミに騒がれていた二人にとって、少しでも世を忍ぶことのできる北鎌倉という立地は願ってもない場所であったようだ。
 魯山人が「好きなだけ暮らしなさい」と提供したのは、築200年の古い農家であった。ノグチは早速 地元の大工とともに農家の改装と仕事場の増築にとりかかった。山あいの場所で敷地が狭かったが、 丘を掘り込んで10坪の仕事場を何とか確保した。ノグチはこの仕事場で魯山人から貰い受けた陶土を使って成形し、魯山人の窯で焼いてもらって、多くの陶の作品を制作した。
そもそものノグチと魯山人の出会いは、1950年の来日の時だった。ノグチはある有名な料亭に招待され、そこで偶然、魯山人の陶器に接した。一目で気に入ったノグチは、わざわざ魯山人を北鎌倉の工房まで訪ねた。この時すでに、丘にはさまれた小さな谷間の稲田と古い墓葺き屋根の家々にも惹かれていたという。
魯山人は当時、辛辣な毒舌家としても有名だったが、ノグチにとっては「驚くばかりに優しい」敬愛すべき芸術家であったという。ノグチは、アメリカの雑誌『ヴォーグ』 (1954年5月号)における魯山人の紹介記事のなかで次のように述べる。
「彼は、過去の織部や志野、備前といった偉大な陶器の影響を受けて、基本的に古典的感覚のものであるが、魯山人の独自性が息づいている膨大な量の作品を作りはじめた。・・・・・・ナ イフやフォーク、スプーンと調和する皿や鉢を作る浜田[庄司]や[バーナード・]リーチといった現代日本の陶芸集団、民芸に反対する立場から、魯山人は西欧の考え方に妥協することを拒否する。魯山人の鉢は箸だけのためのものである」と。
ノグチは魯山人のなかに、日本の伝統の正当的な継承の仕方と、日本の伝統を再発見できる西欧的とも言える眼の存在に注目した。それこそが新しい芸術を切り開くポイントであるということを、ノグチは充分に認識していたのである。そして、もう一つは自然の一部である土を使った自然なフォルムと窯変の妙であった。つまり、陶のもつ本来的な面白さを魯山人が教えてくれたのである。

陶のオブジェ

ノグチは北鎌倉での生活のなかで、日本の移り変わる季節について驚きをもって実感していた。日本においては、人と自然とが非常に近い距離にあるばかりでなく、生活のなかに侵入してくる自然を積極的に迎え入れていることにノグチは感動し、それを人と自然の「交響曲」と称した。こうした身近な自然の再発見が、土を素手でこねて作った、素朴なフォルムの陶のオブジェへと結びついていった。

イサム・ノグチ《私の無》1950年


とくに、ノグチが魯山人のもとにいた時は、魯山人が備前を再発見し、独自の備前焼を成功させた時期と重なっている。ノグチも備前の土を激賞し、魯山人とともに伊部の金重陶陽の窯まで訪ね、いくつかの備前焼を試みた。
この時期の成果が1952年の神奈川県立近代美術館での個展で発表された。展示されたものは、瀬戸、信楽、唐津、笠間そして備前などのスタイルで焼かれた皿、茶碗、壺、鉢、オブジェなど119点であった。これはニューヨークに運ばれて、1954年ステーブル・ギャラリーでも同様の展覧会が開催された。
魯山人はこのようなノグチのことを「革命芸術家」として少し距離をおいて見ていたものの、本質的には確かな目をもった、真の芸術家であることを見抜いていた。魯山人はノグチについて絶賛した次のような文章を残している。
 
「日本では、誰もが、イサムのデザインしたものは、なにがなんだかわからないという。これももっともな話で、私のごとく朝夕を近隣に接しているものでさえ皆目なにがなんだかわからない。・・・・・・好み は全く異なっていても、作るところの作品が示す直曲、全ての線にいささかも無理のない、誤りのない点は賞賛に値する。……いかなる形態をとるにしても、その素質の美しさは、これを芸術価値あるものとして許せるものである。……イサムはピカソより美しく感じる。」(『独歩』1952年2号)
 
ノグチのフォルムには、ハニワなど日本の古代文化からの影響が見られるので、魯山人にとっても親しみやすかったのだろう。ただ、ノグチはそれを単なる伝統回帰に終わらせるのではなく、その根源的な精神を芸術的な養分として吸収し、よりモダンなフォルムへと発展させていったのである。
 
 
参考文献:『イサム・ノグチと北大路魯山人』読売新聞社

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