「自信ない」界隈への朗報
自信がない、というのは何かを選ぶときにする言い訳のひとつだと思っていた。
お金がない、時間がない、めんどくさい、と同じように。
それは間違っていないけれど、言い訳である「自信がない」には本当の理由がちゃんと別なところにあると気づいた。
例えば、初めてのことで不安だったりとか。
私もそうだけど、人が「自信がない」と思うのは初めてのことをする時が多いのではないかしら。初めての仕事、初めましての人の前で話すこと、初めて思いを伝えるとき等など。
初めてのことに自信をもつのは難しいし、上手くいくかわからないから不安にもなる。それは、もうどこか仕方ないのかもしれない。初めてなのだから。
「最悪を想定しながらそのときベストとなる行動をとること」
しいたけさんの分析によると、今週の(さそり座の)私はいつも以上に考えすぎて、不安になって、敏感になっているらしい。火曜日にしてさっそく思い当たる節があるのは、流石しいたけさん。
そう言えば、さいきん読んだ最所さんのnoteにはこんなことが書いてあった。
人が自信をもてなかったり決断を先延ばしにするのは、最悪の状況を想定できていない場合がほとんどです。チャレンジをした場合のそれぞれの "底"が見えないからこそ、自分の選択に自信がもてずに現状維持という "選択"をしてしまうのです。必要以上に決断を恐れている人は、そこで失敗したら死ぬしかないという恐怖に取り憑かれているように思います。(「私の自信の育て方」より)
「人は実際に起こったことより、自分の想像力によって苦しみを感じる」
というのが私の持論のひとつにある。
私たちが自信をもてなかったり不安を感じるのは、きっと、最悪を頭で想定できていないことによって心のなかに怖い気持ちが縦横無尽に広がってしまっているから。
未来のことを、それも最悪の場合を考えるのは決して楽ではないけれど、不安がちょっぴりでも少なくなって、自信をもって決断することができるようになるのならば。
さそり座の私はやっていきたいと思う。
そもそも、自信って必要なんでしょうか?
高校の吹奏楽部の練習中にこんな言葉を聞いたことがある。
「自信がないとか、風邪をひいて体調がわるいとか、そういうのは聴きに来る人には関係ないから」
聴きに来る人の気持ちを想像してみると、本当にそうだよなあと思う。
もうひとつ例えば、ジャズの話。
ジャズのアドリブソロでは出していけない音はひとつもなくて、あえて音をぶつけてもいいし、リズムを揺らしてもいい。こういう自由さがジャズをジャズたらしめている。
そうは言っても、自由なことと秩序や哲学がないことはずいぶん違うようで、自信なく出してしまった音や、なんとなく奏でた音は、不思議と間違えたように聞こえてしまう。
この言葉を受けとった直後はひやっとした冷たさを感じたけれど、味わってみればじんわりと暖かい救いのある発明だった。
自信がなさそうのは声や態度に現れても、「自信がない」ことは他の人にはわからない。これらは似ているようでどこか違う。
そうであるならば、
「自信なんてなくてもいいから、遠慮せずに堂々としていればいい」
これがいまの私の本音であり、そうあることは私にとってもあなたにとってもきっと素敵なことだと思う。そして、これは自信ない界隈にとって良い知らせでもあると信じている。
まだまだ「自信」のない私だけど、自分の心地よさと周りの人の気持ちよさを大切にしながら、どっしりと軽やかに生きていきたい、と思う雲に覆われた火曜日の夜。きょうは家族で食べる鍋を作りました。