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やってみなはれ、なんでもやってみな、わかりまへんで

サントリー創業者 鳥井信治郎

●この言葉は、鳥井信治郎の口癖だった。信治郎の息子の佐治敬三が、病床の信治郎のもとを訪れ、ビールを手がける決心を打ち明けたときも、信治郎は「やってみなはれ」と励ました。

●サントリービールは、信治郎の亡くなった翌年の昭和三十八年に発売された。しかし、ビール業界は販売店が系列化され、特約店制になっていた。そのため、サントリービールは冷たくあしらわれ、なかなか置いてもらえなかった。

●何度も社員が足を運んで、やっと置いてくれる店が出てきたが、他のビールと一味違うためか、売れ行きがパッとしなかった。固定客がなかなかつかず、売れ行きにムラがあった。

●佐治は苦境に立たされた。
(大きな資本を投入して工場をつくったのに、これでは意味がない。セールスの特攻隊を組織して、体当たりでやってみよう)

●父親ゆずりの「やってみなはれ精神」を燃え立たせた佐治は、社員のなかから猛者を選んで特攻隊を組織した。この特攻隊は「新撰組」のニックネームで呼ばれた。

●佐治は「新撰組」の局長近藤勇になって陣頭に立ち、隊士たちの指揮にあたった。隊士たちは、セールスの車に乗り、めざす飲食店に着くと、重たいビールケースを肩にかついで訪問し、置いてくれるよう説得した。こうした敢闘精神によって、サントリービールの扱い店は少しずつ増えていった。

●とはいえ、シェアは遅々として伸びない。四十一年までは、1パーセント台の惨敗であった。五十年にはようやく5パーセント前後
になり、五十五年ごろから7パーセント台とすこしずつ伸びてきた。

●「自分が責任をもってやるときには、最後までやり通さなあかん」
佐治は、父がウィスキーでやったことを、ビールでやる決心でがんばった。そのがんばりが報われるのは、シェアが10パーセントに達したときだと、自らにいい聞かせている。

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