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グラウンドに出たら、先輩、後輩の序列はないんだ

読売巨人軍元監督 長島茂雄

●巨人に入団したばかりの高田繁は、バッティングゲージの長島の打撃練習が終わるのをじっと待っていた。しかし、なかなか終わらない。
「まだ終わりませんか」
と声をかけても、知らんふりで打ちつづける。そして、ようやくバッティング練習を終えた長島が高田にいったのが冒頭の言葉である。
先輩といえど、追いたてるくらいの根性を持てといったのである。

●これに関連した話が戦国時代にある。
 織田信長は近江の浅井長政攻略の機会をうかがっていたが、1573(天正元)年八月、長政の属将、阿閉淡路守の寝返りを絶好の機会として、家臣らに総動員をかけ、自らも岐阜城を進発、北近江に攻め入った。

●信長が戦端を開いたのは、浅井の救援に来た越前の朝倉軍二万相手であったが、これを一気に破った。退却する朝倉軍に向かって、信長はまっ先に追撃した。

●ところが、柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛ら、代々からのいちばんの側近武将らが遅れをとって、信長のあとから駆けたので、信長は激怒した。
「かねてより触れておいたのに、遅れるとは何事ぞ!」
ようやく追いついた家臣らを叱咤した。

●佐久間信盛が馬に鞭をあてながら、
「殿には遅れたなれど、われらをさしおいて戦がけをする者は当家におらぬはず」
信盛の言葉に、信長は烈火のごとく怒った。
「さしたる功名も立てずに、大口をたたくな」

●ところが、朝倉軍を追っていくと、前方に一団の軍が駆けている。信長が先頭をきっていると思ったら、それより前に前田利家と佐々成政の軍が追撃していたのである。信長は先を越されたが、大いに満足であった。

●佐久間信盛は譜代の臣であることを自慢して、戦場でも先輩風を吹かせたが、能力本位の信長は素性はわからなくとも秀吉のような実力者を抜擢していった。信盛はのちに父子ともども追放されている。

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