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【Vol.7】成田誠治郎 帝国海軍従軍記

この記事、連載は...私の母方の祖父である故・成田誠治郎が、帝国海軍軍人として従軍していた際の記録を元に再編集したものである。なお、表現などはなるべく原文のまま表記しているが、読みやすくするため、一部を省略、追記、改変している部分があることを予め了承願いたい。

従兵時代

従兵とは士官の世話係で、士官には兵学校出または大学生から入った医師、商船学校からの者を言い、下士官より進級した特務士官等があり、食堂は区別されている。
私は士官室の従兵であった。

仕事は食事の世話、衣服の整理、靴下、パンツ以外の肌着の洗濯、士官によっては洗濯屋が乗っている場合はそこに出す人が多い。その他個室の清掃、靴磨き等を行う。

従兵の中で特に印象に残っているのは、筑摩の一分隊長である。
その名は富樫七蔵といって、出身は神林村有明の人で、私が分隊長の私室を清掃していたとき、君は郷里はどこかと尋ねられたので、村上本町ですと言ったら、そうか、私は有明だと言われ驚いた。

一分隊長となれば本艦の先任士官で、序列では筆頭士官でありとても威厳がある。
昭和63年に90歳の高齢で、横須賀市に在住、健在とのこと。

一分隊より扇風機の首振り具合がガタつくので見てくれと言われ、電機倉庫で分解修理をしてあげたら大変喜んでくれた。

士官にも兵学校出できりっとした人、だらしのない人、また口やかましい人色々だが、特に従兵に対し異常とも思える位文句をつける人には、当方も頭に来て次のような仕返しをした。

鼻くそ入りの味噌汁、ツバを付けた焼魚、小用に行ってもわざと手を洗わず配食してやることもあった。
それでもニコニコ食べている士官もいる。

従兵は、ご飯を茶碗に盛るときはお盆にのせたままで茶碗に盛るのであるが、なかなか馴れないと出来ない。

食卓には特にウマそうなものが残ると、チョイと一口ゴチにすることがある。
飯はギン飯で特においしいので、残ったものはオニギリにして夜自分のパートに帰ってから食べたこともある。

艦内においての食事では、どうしても醤油は欠かせない調味料で、若干の配給はあるがまず必要量の1/4位である。

海軍料理の中に玉ネギを細く切ったものに醤油をかけて食べるものがある。
玉ネギは食料搭載時に、各分隊より10人位が作業員として出て、上甲板より食料を担いで艦内の倉庫に運搬する。

その時、監視が2~3人はいるがその目をかすめて玉ネギを一箱ギンバイ(注)して、我々しか知らない部屋に“カク”す。
終わってから各々に分散して格納しておき、必要都度手料理で食卓に出すが、醤油がなかなか手に入らない。

ある時、私が電機倉庫でヒューズを直していたら主計兵が、庫内に入って来て黙って何かを見てすぐ帰って行った。
そこで私がその場所を見てみると、普通は気が付かないのであるが、よくよく見ると油面計のようだ。

厚いガラス管に覆われた油面部の下にはコックがついている。私がそのコックをひねるが固くて回らない。
コックの握る反対側に締付ナットがある。これをスパナでそーっと回し、ハンドルを回したらなんと醤油がピューっと出てきてデッキを濡らした。

コレはコレは大発見ということで、コックは又元通りに直し、何食わぬ顔で他の者にも聞かせないで私の専売特許としておき、醤油は俺に任せておけと言わんばかり。

同年兵から、成田また頼むぞと言われると、わざと少し時間をおいて無人の電気倉庫に行き、1リットル位失敬して来て、ビール瓶に入れておく。
誠に愉快である。

タンクは少なくとも長い航海にも必要量を満たすだけの量、1tくらいはあったと思う。

上官も、最近醤油が切れたことがないなー、と笑顔で言う。
先日の食料搭載では玉ネギとジャガイモ各1箱を確保出来てまず一安心。

醤油のことを、その後一ヶ月もしてから同年兵の菊入福次に教えたら、ヘマをしてコックがよく閉まらないと私を呼んだ。
見ると、回すを一定にしないと逆転ではだめと教えてやった。
あの時に主計兵が来たら困った事になっていたかもしれない。

菊入はちょっとおっちょこちょいのところがあり、彼のやることが悪く、私達の罰の原因にも
なっており、ドン菊というニックネームもついた。

(注) 以下、「大平洋戦争と神霊世界」より引用

「ギンバエ」と言うこともあるようです。食べ物にたかる蠅のように、正々堂々と食べ物をかっぱらうことです。新兵は下士官の食事の面倒を何かと見なくてはなりませんが、時には惣菜に醤油が欲しいだの、味噌をくれだのわがままを言われます。上官の命令は絶対なので、こうして新参兵は炊飯兵に調味料をもらう交渉に行くのですが、炊事班では余計なものは出しません。仕方が無いのでスキをみてかっぱらってくるわけです。

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