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【ココロの旅#86】"絵画鑑賞"-素的視点から

 こんにちは、3月に入りました。2月から3月の移る時の、あの、あっけなさ、拍子抜けしたような気分...

●絵を観る・・・とは?

普段から絵画を観ることが好きな私ですが、先日、久々に展覧会(「リヒテンシュタイン侯爵家の至宝展」)へ出かけました。

どの展覧会でも、"心惹かれる"作品にはつい「上手いなぁ!」とコトバを(胸の内で)呟いてしまうのですが、今回も美しい出会いがありました!

押し並べて展覧会というものには、選りすぐりの作品が揃っているのだから「上手」なのは当然。
しかも、この「上手いなぁ」ー表現が稚拙でお恥ずかしい限りなのですが、他に言いようがないというか。
何らかの専門的知識や背景があれば、知的で洗練された、それこそ芸術的な言葉でもって表現することができるのでしょう。

「美しい」とも違うこの「上手いなぁ」、一部の方からはマスターピースや作家に対して何と失敬な!とお叱りを受けそうですが、私の場合、どうにも「上手い」コトバが出てこず(笑)。

その一方で、以前読んだ小林秀雄の文章に「鑑賞とは作品と黙って対峙すること」のような内容のくだりがあったことも思い出したりしている。
氏(師?)の教えに沿えば、作品に対して「上手いなぁ」なんて呟く私は全く修行が足りず、全く精神がぬるいということになる(苦笑)。

今改めてこの文章(「美を求める心」)を読むと、正確には

『見ることは喋ることではない。言葉は目の邪魔になるものです。』

そして、こうとも書かれてある。

『(言葉にできないほど感動した時に)この何んともいえないものこそ、絵かきが諸君の眼を通じて直接に諸君の心に伝えたいと願っているのだ。』

・・・恐れ多くも我流解釈してみると、
「美」そのものに没頭せよー例のDon't think, just FEEL! か…

はて、はて、一体何なんでしょうか?

●素的視点から

実は、「上手いなぁ」と呟く作品は、それらの背負っている(とされる)もの、時代背景や作者の境遇・心情などからは解放され、ひとり、この世界を自由に羽ばたいているように映るのですよね、私の眼には。

言ってみれば、吟遊詩人、世界を愛で謳い継ぐ役目を担う存在...

その姿かたちそのものを「愛で/眼で」捉えよ、ということであったのだろうと、自己に厳しく、真の批評家であった小林秀雄の想いに、
我が「上手いなぁ」はギリギリ及第点かもと、勝手に少し自信を持ったのですが、如何でしょうか(笑)。

<今日の美・・・こちらもどうぞ :)>

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