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【ココロの旅#69】"理"と"勝ち負け"-素的視点から

 新年あけましておめでとうございます。
 どなた様にとっても健やかで心明るい年になりますように。

 昨年末「素でいく2021」と宣言しましたので、この世界・ヒト・コトを素的視点で眺めてみようと、本日からこのブログに綴っていこうと思います。
 元旦には一年の計や抱負を述べるのが世の常でしょうが、今回は年末の御神籤で神様から頂いた言葉のひとつを新年最初のテーマとして改めて考えてみます。

~「争事(あらそい)=理(り)ありても負けます」~

●メッセージの意味は?

この言葉を目にしたとき、
「いくら道理がこちら側にあるとしてもケンカ/訴訟相手には負ける」
と、咄嗟に思ったのですが、次第に「ホンマにこんな解釈でいいのかな?」と疑問がわいてきました。

つまり、
・「争いごと」は意見や考え方の相違から発生するものだろうけれど、「理」という絶対的なものには、いずれの主義主張も無力、無意味なのでは?

だから、
・いくら力づくで相手をやり込めようとしても、「理」の前ではいずれもひれ伏すしかなく、勝ち負けなど存在しないのでは?

それに、
・仮に、どちらか一方に、"真の意味"で「理」があったとしたら、そも、争いごとなど起こらないのでは?

では、なぜ神様はあのようなメッセージを送ってきたのだろう…

御神籤も、ま、ヒトさまが作ったものとも言えますしねぇ、吉も凶も、所謂「商品ライン」にあるひとつなのかも...という声が聞こえてきそうですが、それでも、御神籤に一喜一憂する人が多いのも事実。
或いは、御神籤を気にするあまり「そんな迷信じみたことはしない!」と強がる人もいます(コレ、かつての私自身です)。
ですので、多くの方が御神籤を神様からのメッセージだということに賛同してくださるとして・・・

はて、はて、一体何なんでしょうか?

●「素的視点」から

「理」と「争事=勝ち負け」は同じ土俵に立つ概念ではないというところまで思い至ったら、

「理」⇔ 宇宙、自然
「争事」⇔人造物(笑)

と、ふと頭に浮かび、
皆、「理」というものを、各々の視点から別々に見ているに過ぎず、各々の意見や考えの相違は、我々の内にある「理」でもってこの世の「理」を再構成するためかもしれないな、と。

争いごとは、場合によっては身を危険に晒す可能性もあるのに、なぜ起きるのか、起こすのか。
その発端は、己の、つまり各々の「理」に適わない事柄を、相手/他者やソトに見ると、ウチソト区別なく(要は無自覚に)「理」を糺したくなるということから来ているのだと思います。

そこで、大切なのは、糺す前に、皆いずれも各々の「理」の前に、大前提(言葉での表現が難しいー!)の「理」の構成員、「理」に住む住人たちであることに、少し自覚的になるのが良いかもしれません。
これは、その昔よく耳にした「人類皆●●」という昭和のアレというよりも、皆さんが、日常でふと感じる「あれ、自分って何だっけ?何してるんだっけ?」に近い。

ですので、各人の「理」以前には、大きくて深い「理」があることに少し思い出し、ウチ(自分自身)とソト(他者)への信頼が元々あることを自覚していこうと改めて思いました(もうエエ齢で、誠に遅ればせながらですが)。
ヒトは「この世では、修行し課題を克服し役割を果たすために存在する」と言われる方も多くいますが、むしろ、私は「日々の言動を通じて、己の『理』パズルの足りないピースを埋めながら、大きなあの『理』に向かうために存在する」と思っています。

で、件の「理ありても負けます」ですが、つまるところ、(ちょっと苦し紛れですが)彼の人はそなたの「理」パズルのどこかを埋めるピースを持っているのだから、その相違だけを見ずに負けて(一歩引いて)俯瞰してみなさいーということかと。

本年もよろしくお願いいたします。

<今日の美>

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