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【ネタバレ有感想】風花雪月と風花無双が描いたもの、そしてトライアングルストラテジー

『ファイアーエムブレム無双 風花雪月』発売から約一ヶ月。無事、先日全ルートクリアいたしました。

他人の感想は自力でクリアするまで見ないと決めているので、ようやくいろいろな人のこの作品への感想を見ることになったのですが、蓋を開けてみると否よりの賛否両論の嵐。人を選ぶとは思ったけれど、まさかここまで荒れているとは。

というわけで、なぜこの作品はこんなにも多くの拒否反応をもって迎えられたのか?について考えてみたいと思います。

結論から言うと、『風花無双』は決してキャラの解釈が甘いキャラ崩壊作品だとはありません。ただし、多くのファンが見たくない風花雪月の一側面を曝け出した作品だといえます。

具体的には、ディミトリ・エーデルガルト・クロード。3人の級長が”先生"という英雄なき世界で理想を追い求めた結果、露わになる不完全な現実を冷酷無比に描いた作品です

よりにもよって、キャラゲー要素の強い作品のファン向けの外伝でこんなものを出したのか……かなり挑戦的な内容ですし、怒る人は怒って当然の作品だと思います

とはいえ、解釈の不一致でモヤモヤし続けるのは不毛だとも思うので、この作品が描こうとしたものはなんだったのか? そもそも風化雪月という作品はどういった作品だったのか? どうしてこうなった? ということを細かく解説していきたいと思います。

また、それを読み解くカギとして、2022年3月にスクウェア・エニックスより発売された『トライアングルストラテジー』という作品とも対比していきます。

実は、この2つの作品、単なるゲームシステムの話ではなく、根っこの部分でものすごくよく似ているんです。

なろう系主人公ベレト/ベレス

風花雪月本編と風花無双の一番の違いは何かというと、やはり"先生"の不在でしょう。

私は、以前から冗談めかして「先生とかいう戦争絶対勝つマンがいるから、風化雪月の話はこじれた」と言っていたのですが、公式がその答え合わせをしてきた形となります。

ファイアーエムブレム風化雪月という作品は、物語の序盤で3つのルートに分岐し、途中でさらにもう1つのルートに分岐する作品です。それらのルートの違いは、シンプルに主人公が誰の味方をしたかというただ一点だけです。

ベレト/ベレスという主人公はとにかくチートスペックの持ち主といえるでしょう。

出自不明の胡散臭い存在ですが、戦に出れば常勝無敗。そのカリスマ性で同僚から女神まで幅広い人間に愛され、国家元首の卵たちの唯一無二のパートナーとなって、落とし物を届けるだけで生徒たちは祖国を捨てるほどに心酔してくれます。

風花雪月の背景にあるのは、宗教や階級社会によるしがらみに支配された、世俗的で因習的な中世の世界観です。3人の級長たちはそんな世界の犠牲者であり、世界を変革することを強く望んでいます。

先生は一切しがらみのない身分でそんな世界に舞い降りて、圧倒的戦力で生徒たちの理想を実現に導いていくばかりか、気に食わない相手は徹底的に破壊してくれます。

古臭い中世の世界観にチート主人公が舞い降りて、生徒たちの尊敬を集めながら相手を蹂躙して、また俺何かやっちゃう物語、それが風花雪月だともいえるでしょう。

ベレト/ベレスというなろう系主人公の存在が、風花雪月を血を血で洗う泥臭い戦記物から、誰もが親しみやすいヒロイックな英雄譚に変えてくれました。

では、そんなチート主人公がいない本来の世界はどうなったのか? 英雄の手を介さない"人間"たちの物語はどうなるのか? それを明らかにしたのが風花無双なのです。

3人の級長と3つの夢物語

3人の級長はそれぞれにトラウマを抱えており、それを解消するために世界を変革する理想を掲げ、戦争に身を投じていきます。

この3人の級長たちのもつ理想が『トライアングルストラテジー』と極めて類似しているのです

ディミトリとロランは、傷つく者たちが生まれない道徳と秩序のある世界を望みました

エーデルガルトとベネディクトは、古い社会の非合理を撤廃し実力と実利のみで評価される世界を望みました。

クロードとフレデリカは、従来の秩序では救うことのできない者たちに目を向け、既存の価値観の破壊と自由を望みました。

トライアングルストラテジーはこれらの思想の対立を徹底的に描きました。そして、これらの理想を実現する上で、両立できない他の思想を切り捨てながら、少しでも理想に近付くための決断を、プレイヤーに迫るゲームでした。

それにしても、同じ実利を重視した革命家であるにもかかわらず、ベネディクトは「一番まとも」と言われ、エーデルガルトはサジェストに「嫌い」がしばしば出てくるほどに嫌われていたのが面白いところです。

それは、風花雪月がその理想によって「手に入るもの」を重視していた一方で、トライアングルストラテジーが「切り捨てるもの」を重視していたことにも理由があるでしょう。

僕はエーデルちゃん大好きです。

主人公のパワーと物語の変化

さて、トライアングルストラテジーの主人公セレノア・ウォルフォートは膠着した三国の均衡を崩すトリックスターではありますが、ベレト/ベレスほどの万能の英雄ではありません。時に妥協を挟みながら、既存勢力と時に協働して自分たちの理想を実現します

一方で、ベレト/ベレスは最強主人公なので、対立勢力を有無を言わず滅亡させることによって理想が実現できます。とにかく、圧倒的な暴力で他の勢力をなぎ倒し迎合させていくのみです。

そして風花無双の主人公であるシェズは、特殊な背景こそあるものの、セレノアに比べてもさらに立場が弱い一般人です。最後まで信頼のおける部下という立場を超えられないところからも見て取れます。

それがゆえに、風花無双では級長たちは戦況をひっくり返す戦術も全てを叶えてくれる英雄もいないまま、自力で理想を実現する必要がありました。

風花雪月のヒロイックなドラマから一転し、人間たちによる血生臭く泥臭い人間ドラマへと転向したことが、風花無双の賛否あるシナリオを生んだ根源であると言ってよいでしょう。逆に言えば、これらは勝てば官軍という形で見過ごされてきた、級長たちのベールを剥がす行為に等しいんですよね。

そら、怒る人は怒って当然です。

情に厚い独裁者ディミトリ・ロラン

ディミトリ・ロランの両名はひたすらに秩序ある安定した世界、傷つく者のいない世界を目指しています。その目的の果てとして、既存の宗教勢力による統治・秩序を肯定するという部分まで含めて共通ですね。

ディミトリ、そしてロランは作中においてもしばしば「優しすぎる」ことが指摘されています。彼らが平穏な世を目指すのは、自身が体験した悲惨な過去をみんなには体験してほしくないという願いから来ています。

問題はこの「みんな」とは誰かということです。

実は、二人とも「みんな」といいつつも「自分の目の届く範囲」を優先しています。ロランは宗教秩序との共存のためにローゼル族を犠牲にしましたし、風花無双ではクロードに「みんな」の範囲の狭さを指摘されています。

何よりも「自分の身近な傷つく人が傷つくのを見たくない」のです。自分の関与しないところで多くの人が犠牲になろうとも、町の表通りを歩く市民の笑顔を優先します。

その近視眼的な甘さが、エーデルガルトがディミトリを徹底的に憎悪する理由でもあります。可愛いね。

一方で、その平穏を乱す輩は絶対に許さない

それゆえに、自らの体験した悲劇を生み出した元凶であり秩序の破壊者でもあるアドラステア帝国やエスフロスト公国だけは、共存の道は探さずに決着をつけるのです。死者の無念を晴らすため、という理由を添えて。

ただ、やってることは、究極の身内政治に他なりません。「みんな」の平穏を乱すものは徹底してその輪から排除されます。

風花無双ではその側面が強調されていました。王国ルートでは、ディミトリは国内の反対勢力の徹底的な粛清に心血を注ぎます。自身の目指す"平和"と共存しない者は徹底的に排除するのです。

一方で"身内"と認定した者には途轍もなく甘い。その最たる例がマイクランの将への起用でしょう。たとえ、彼の過去の悪行による犠牲者がどれだけいようとも、その復讐心は認めてくれないのです。なぜなら、彼は紋章の犠牲者であり、守るべき"身内"であるからです。

このゲーム、モブに為政者への不満を口にさせるあたりが本当に邪悪だと思います。

実利主義の革命家エーデルガルト・ベネディクト

エーデルガルト・ベネディクトの両名は、徹底した実力主義を志向しています。両者とも貴族社会の犠牲者であり、形ばかりの身分制社会に対する憎悪が背景にあります。

ディミトリとエーデルガルトの二人は体験した悲劇の背景こそ似ているものの、たどり着いた結論は全く逆でした。ディミトリは力がなき者が蹂躙される社会を恨んだ一方で、エーデルガルトは力なき自分を恨みました

それゆえに、自らを蹂躙した者が持っていた力=既得権益を破壊することを目指します。自身が本来持っているはずの力が評価される世界を構築することで復讐を実現しようと考えたのです。

その目的を実現するためならば、仇敵であっても躊躇なく手を組みます。エーデルガルトは一時的に闇に蠢く者と手を組み、ベネディクトはエスフロスト公国との同盟という奇策を選びました。いずれも、既存の権力構造の中では不当に虐げられてきた者たちなので、利害は一致しています。

ロランが指摘した通り、それは自力救済する力を持たず虐げられる者、既存の権力に甘えて守られてきた者にとってはあまりに過酷な道でもあります。しかし、彼らはそんなことなど百も承知です。なぜなら、そういった者たちを踏みにじることこそが復讐の目的なのだから。

エーデルガルトが帝国の利益以上に、個人的な闇を蠢く者への復讐以上に、教会秩序の破壊に拘ったのはそういった背景があると思われます。

だからこそ、その思想についていけない者には容赦しない

時には身内を粛正することによって、思想チェックをすることすらあります。その犠牲者となったのが、エーギル家でしょう。革命思想はいつだって、思想統制ありきなのです。

風花雪月本編では、師のおかげで一生戦に勝ち続けるため、既得権益の連中を黙らせる口実がいくらでもあったという点が何よりも大きい。エーデルガルトの構築した新秩序においては、勝利をもたらしている自身のやり方こそが間違いなく正義なのだから。

一方で、チート軍師がいない上に闇に蠢く者というバフを失った風花無双では、その統制に常にほころびが見えています。彼女のあまりに純粋すぎる理想は、勝てば官軍という危うい柱の上に支えられていたともいえるでしょう。

また、あまりに急進的過ぎる考えゆえに、方針にさえ異を唱えなければ無能であっても登用せざるを得ないほどの人材不足にも直面しているのも特徴でしょう。ヴァーリ伯という明らかに司教の器ではない凡庸な男をのさばらせたのがその典型例です。

自由を追い求める夢想家クロード・フレデリカ

クロードとフレデリカは、いずれも既存の価値観そのものの転換を志しています。他2人のやり方では引き続き無視されてしまうようなマイノリティがその出自に関連しているためです。

皆が身分社会や格差社会と闘っている中で、一人だけ民族問題というより大きなスケールの問題に立ち向かっているのがこの2人なのです。そして、それを打倒するために宗教という現在の価値観を支配する体系そのものを破壊しようとしています。宗教は得てして信者と異端を区分するところから始まりますからね。

彼らの目的は少数民族の声を届けることにあるので、解放した後のことはあまり考えていないという点も共通しています。世界が開けてステークホルダーが増えたことによって生じるであろう、世の中の混乱には頭が回っていません。

聞こえはよいのですが、あまりに理想が高すぎて実現が難しすぎる。というか、大半の人にとっては今それどころではないと思われてしまうのが関の山です。

風花雪月では、相棒のおかげでフォドラをあっさりと統一してしまった上に、なんやかんや都合のいいことに宗教勢力まで支配下に置いてしまったので、エンディングでフォドラを解放し、理想に邁進することができました。逆を言えば、それぐらい内政の憂いを絶たないと、クロードの理想は実現できないのです

フレデリカの描いた理想が円満な形で成就するのが、全ての敵対勢力を排除し代替となる新元首を据えることができたトゥルーエンドのみということからも、その困難さがうかがい知れます。

その意味では、風花雪月本編の金鹿ルートは、トライアングルストラテジーのトゥルーエンドと最も近いと言えるでしょう。

逆に、そこまで手筈を整えていないのに理想を追い求めようとするとどうなるか。一人孤独に戦い続けるしかありません

風花雪月本編の帝国ルートでクロードが旅立ったように、あるいはフレデリカルートでウォルフォート家を捨てて新天地に旅立ったように、自身の責任を放置して夢を追いかけることにより、彼らの理想は実現されることがあります。もちろん、大局的には何も変わらないのですが。

あるいは風花無双のいくつかのルートでクロードがやったように、突然吹っ切れたかのように理想のために戦って犬死にするかですね。

彼らの語る理想は非常に崇高で否定こそされないものの、結局賛同はされません。最強の軍師がその理想を叶えてくれた風花雪月本編とは異なり、風花無双ではなりふり構わずに権力を手に入れようとする彼の姿が描かれます。

連盟の合議制を廃止し王政を樹立したのがその最たる例と言えるでしょう。他にも、帝国を見捨てて大幅な戦局有利を取ることに固執するなど、とにかく自身の発言力を高めることに執着する姿が描かれます。自身の理想の正しさを信じるあまり、独善的ともいえる姿勢でしょう。

自身の声を届けることが第一なので、領内の統治については限りなく無頓着なのも特徴ですね。無茶な出兵でエドマンド家から無限に軍資金を供出させたり、領民の信頼を得ることを重視するグロスタール家に諫められたりと、経済と治安を度外視した描写が散見されます。

そこまで存在感をアピールすることに固執しつつ、やったことは戦線を無駄に拡大させただけと、見事に何も実現できていないのが無常感を感じさせますね

英雄なき世界で

さて、ここまで級長の思い描いた世界とその顛末を追ってきましたが、いずれにしても共通するのは、あまりに純粋すぎる理想に人々がついてこられない描写です。

その結果として、いずれの級長も自身の理想を実現するための粛清と仲間割れに心血を注いでいます。そこまでしても、結局、フォドラの統一はかなわず三国は永遠に戦い続けるという無常感漂うエンディングで統一されています。三国志ですら一代では統一できなかったし、そんなもんといえばそんなもんである。

ベレト/ベレスという究極の暴力装置が存在していた世界では、その暴力によって彼らの描いた理想の未来を実現することができました。しかし、そこには切り捨てられた者・置いて行かれた者たちが存在している

風花無双が目指したのは、風花雪月で描かれたヒロイックなドラマで崇高な理想を実現する英雄たちの神話ではなく、利害の絡み合う世の中で泥臭く戦う理想主義者たちが織り成す人間たちの物語でした。

風花無双は、風花雪月の世界観を深堀りするために、ベレト/ベレスというチート主人公を排除することによって、彼らの存在によって曖昧にされてきた対立者・犠牲者たちの存在を、主人公を排除することで明らかにするという手法を取りました。

結果として各国・各家の抱えていた事情や対立関係はより詳細に描かれることとなり、世界観は拡大しましたが、見たくなかったという気持ちもよくわかる。(あと、興味のある人が多いであろう神話関係は謎だけ追加して何も情報が増えていない)

そもそも、ファイアーエムブレムシリーズも無双シリーズも、人間たちによる泥臭い戦記ものというとっつきにくい要素をなるべく希釈して、キャラゲーとしての性格を強めることで支持を拡大してきたシリーズです。

そんな2作品のコラボタイトルとして、自らの培ってきたものをかなぐりすてるようなシナリオの作り方は、個人的にはとても面白かったのですが、まあ、怒られて当然だなと思いました。


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