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出産立ち会いの話


11年前の6月2日、僕は新幹線に乗って滋賀県大津市に向かった。陣痛が始まったとの知らせを受けて、初めての子の出産に立ち会うためだ。


その当時、出産に立ち会うのは、男としての義務のような風潮があったのかどうかは知らない。立ち会うことがいけてる男の条件のような価値観が根付いていなのかどうかも知らない。


だが、今思えば、僕の心の中では、立ち会うことが「最近の流行り」だと捉ていた節はあった気がする。立ち会って妻を励ますとか、力になりたい、という崇高な目的よりも、「立ち会ったという事実を作ること」の方が重要だったのだ。


結論から言うと、そのような動機で立ち会うのはナンセンス、やめた方がいい。


僕は、大津の病院に着くと、助産師さんとともに分娩室に入っていく妻を、なす術もなく見つめていた。


立ち合いに来たんだから中に入っていいか、と申し訳なさそうに尋ねる。ここは完全に妊婦のための施設であって、なんとなく居心地が悪い。


「旦那さんはこっち」


と、言われる通りに動く。


妻は命をかけて痛みに耐えている。助産師さんは必死に妻をリードして分娩を促している。


一方、そこにいた僕は、どう励ましたらいいかさっぱりわからない。ドラマのように感情を剥き出しにして必死に「がんばれがんばれ!」というあの感じはどうしてもできなかった

そもそも、これほどの苦痛に耐える人を目の前で見たのは初めてのことで、正直に言って、ここで自分にできることは何もないと気付かされたのだ。

男の役割はここには何もない。


「旦那さん、手を握って声かけて!」


そう助産師さんから言われたが、そもそも、ここに役割がないと無力感に打ちひしがれている自分には、「何をそこにボーッと突っ立ってるの、この役立たず!」と言われたように感じていた。


心のどこかで、立ち会えば感情が極まって、赤子を見たら心から感動し、妻と一緒に幸せの絶頂を感じ、涙する、という情景を描いていたのかもしれない。だが、そんなものは幻想だと悟った。

ますます無力感が強くなる。


ここにいてはいけないと言う強烈な違和感、苦痛に歪む妻の顔、絶叫、全てが頭の中でぐるぐるとスパイラルを描いて落ちていくようだ。


だいたい、人が苦しむのを見るのは苦手ではあった。


そういえばSAWというホラー映画で失神したことを思い出す。極度の緊張が原因だろう。


そういえば、アフリカでワニに襲われるシマウマの動画を見ると、どうしてもシマウマの気持ちに憑依して絶望感を味わってしまうよ。それでも川を渡るシマウマの群れは一体何に突き動かされているのだろうか、自然は美しいのか。


あの、細いインパラの足をワニの顎で噛むのかよ、自然とは何という無慈悲な世界。

そんなことをぶつぶつと考えていた次の瞬間、僕は膝から崩れ落ちた。なんと、貧血で気を失ってしまったのだ。


悪夢だ。


助産師さんからしたら、この忙しい時に、力になるどころか、世話をしなければいけない人が突然一人増えたわけだ。

妻からしたら、力になると信じていた夫が突然お荷物に成り下がったのだ。


そして、助産師さんから「旦那さん、部屋から出といてー!」と言われ、我に帰り、妻からも痛みに力んだ声で「あっち行っといて〜!」的なことを言われ、もはやこれまで、ここに存在していてはいけないと100%確信した。


言われるがまま、負け犬のように部屋を出て行こうとした。その背中に漂う悲壮感たるや、想像もしたくない。


朦朧とした頭と重い足取りで出口に向かうと、扉の前でもう一度崩れ落ちた。

そして、頭突き戸を開ける羽目になった。


悪夢の再来。合計2回失神した。


妻は、あいつは役に立たない、自分がしっかりしなきゃ、と思ったに違いない。このことは後になっても語り継がれ、今となっては笑い話のネタではある。


結果として、僕が意図したかどうかに関わらず、どのような形にせよ、長男の出産に際して、妻に大きな力を与えることにはなった。


自分が手を握って弱々しい声をかけることよりも、あいつは頼りにならないから自分がしっかりしなきゃ、と命をかけて頑張った妻は、

普通に修行をして強くなる悟飯よりも、瞬間的な怒りに我を忘れて眠れる戦闘力を発揮する悟飯くらいの強さを発揮したはずだ。

結果的に僕の立ち会いは、図らずも、ナッパの攻撃から悟飯を守って死んだピッコロのように大きな「きっかけ」を与えることとなったのだ。


そんな僕の好きな言葉は、「虎穴にいらずんば虎子を得ず」だ。

ここでは、決して、いわゆる危険やリスクを冒したわけではないが、とっても不甲斐ない思いをすることで虎子を得た、ということだ。


寅年の子だ。
グッジョブ、妻!


そして、二度と出産には立ち会うまいと決心をし、妻とも完全に意見が一致した。

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